パンデミック条約交渉:条約のベースとなる「ワーキング・ドラフト」が公表

公正なアクセスと保健システム強化を重視:影を落とす陰謀論に対抗するためには、より透明で開かれた交渉プロセスが必要


新型コロナウイルス感染症(COVID-19)は、より感染力の強いオミクロン株の変異型により、小康状態が崩れ、世界的に再び拡大基調を迎えている。そうした中で、世界では、グローバルなパンデミック対策・対応の仕組み作りが進行しつつある。その一つが、WHOの枠組みで進められている「パンデミック条約」交渉である。

「ワーキング・ドラフト」にたどり着くまで

2020年、欧州連合のシャルル・ミシェル欧州理事会議長が提唱したことで始まった、この「パンデミック条約」の交渉は、WHOがCOVID-19への対応を検証し、今後のパンデミック対応の在り方を見直すために設置した「パンデミック対策・対応独立パネル」(IPPPR)の報告書でも支持され、WHOに2021年5月に設置された「WHOの保健緊急事態対策・対応強化に関するワーキング・グループ」(Working Group on Strengthening WHO Preparedness and Response to Health Emergencies)が、同年11月末に開催されたパンデミック条約の在り方について討議するWHOの臨時「世界保健総会」に向けて、パンデミック対策・対応に関するWHOの条約、合意もしくは何らかの取決めを策定することを支持する報告書をまとめた。これを受けて、同世界保健総会において、パンデミック条約の策定に向けた「政府間交渉主体」(Intergovernmental Negotiating Body: INB)が設置され、このINBが交渉プロセスを管理する形で、検討が進んできた。このパンデミック条約は、現状では「条約」(Convention)となるか、合意(Agreement)となるか、その他の国際的取決め(Other International Instrument)となるか決められていないため、交渉プロセスでは、「パンデミックの予防・対策および対応に関するWHOの条約・合意もしくはその他の国際的取決め(a WHO Convention, Agreement or Other International Instrument on Pandemic Prevention, Preparedness and Response: WHO CAII)とされている。

INBはWHOのすべての加盟国に開かれているが、その進行プロセスを検討していくのは、WHOの地域区分毎に選出されたブラジル(米州)、エジプト(東地中海)、日本(西太平洋)、オランダ(欧州)、南ア(アフリカ)、タイ(南東アジア)の6か国で構成される「ビューロー」(Bureau)である。ビューローは南アのプレシャス・マツォソ氏(Precious Matsoso)とオランダのローランド・グリース氏(Roland Griece)が議長、他の4か国の代表が副議長となって進行し、2月24日にINBの第1回会議が開催、その後、4月12-13日に、市民社会や企業などの非国家主体にも開かれた形で公聴会が行われ、これを踏まえて7月18-21日に開催されたINBの第2回会議に向けて、パンデミック条約の青写真となる「ワーキング・ドラフト」が公表された。

衡平なアクセスと保健システム強化を強調する
「ワーキング・ドラフト」

「ワーキング・ドラフト」は19ページあり、パンデミック予防・対策・対応について、より広い概念を含みこんだ内容となっている。前提として重要なのは、当然ではあるが、パンデミック条約は加盟国の国家主権および各国のおかれた文脈、発展段階や能力の違いを認識し、各国の主権に基づく自己決定権を尊重するという立場を明確にしていることである。一方で、主権国家はその活動によって他国やその国民に損害を与えない責任があるとも述べている。これを踏まえ、第2回のINB会議では、同条約について、法的拘束力を持つ要素と、持たない要素の両方で構成されるべきであるとの合意が形成された。

「ワーキング・ドラフト」は5つのパートに分かれているが、内容面で重要なのは、目的と原則を示したパート2と、具体的な取り組みについて示した「パート4」である。市民社会として評価できるポイントとしては、「衡平」(Equity)が最も重要な原則として打ち出されていること、その結果として、生物多様性条約の名古屋議定書でも規定されている「衡平かつ適時のアクセスと利益配分」や、パンデミックに関わる医薬品の各地域での生産を可能とするための技術移転やノウハウの共有が強調されていることである。特に、「地域での生産と技術・ノウハウの移転」(パート4の4)では、知的財産権の免除についても言及されており、世界貿易機関(WTO)でなされてきた議論は、こちらに引き継がれたとも言える。また、この「衡平」の強調の文脈で、各国の発展段階や能力、おかれた文脈に応じた「共通だが差異ある責任」の原則が明示されていることも注目すべきポイントといえる。

また、「ワーキング・ドラフト」では、ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(UHC)や「連帯」の原則が打ち出されており、そのもとで、保健システムの強化や保健人材の強化が打ち出され、また、ガバナンスにおいても、「政府全体」(Whole-of-government)「社会全体」(Whole-of-society)のアプローチの中で、「市民社会とコミュニティの参画」の観点が打ち出されていることも、注目に値する。

健康の社会的決定要因や人権などについては踏み込み不足

「ワーキング・ドラフト」は市民社会・コミュニティの立場から見た場合、上記のような注目・評価すべきポイントを含んでいるが、一方で、不十分な点も存在する。一つは、高齢化や肥満、非感染性疾患、大気汚染、貧困・格差といった、パンデミックに対する人々の健康上のレジリエンスを低下させる様々な社会的・経済的・文化的要因への視点が弱いことである。COVID-19の重症化と高齢化や肥満・非感染性疾患の明らかな関連性をみれば、パンデミック条約において、これら「人々の健康上のレジリエンスを低下させる要因」について言及し、パンデミックの予防や重症化の防止について、保健システムの強化やUHC、さらに健康の社会的決定要因(SDH)の観点からアプローチすることを各国に勧告することが必要と考えられる。

また、人権の観点は、ワーキング・ドラフトのビジョンや原則の面では触れられているが、具体的な取り組みの部分では言及されていない。衡平な保健アクセスの重要性について、ワーキング・ドラフトで一定言及されていることに鑑みれば、これらを人権の概念で補強することも必要と考えられる。

地域コンサルテーションや公聴会を経て「ゼロ・ドラフト」へ
市民社会の積極的参画の保障は条約の正統性強化に不可欠

パンデミック条約交渉は、2024年の制定に向けて、今後、以下のプロセスをたどることになる。

まずは、このワーキング・ドラフトに対する加盟国および非国家主体(国際機関や地域機関、業界団体、市民社会等を含む)のコメントが9月15日まで受け付けられる。これを踏まえて、8月下旬から10月下旬にかけて、WHOの地理的区分に沿った形で地域コンサルテーションが開催される。

・アフリカ:8月23-27日 ※ほぼサハラ以南アフリカに該当
・南東アジア:9月6-10日 ※ほぼ南・東南アジアに該当
・欧州:9月13-15日 ※ほぼ西欧・東欧・中央アジアに該当
・米州:9月20-24日 ※南北アメリカ地域
・東地中海:10月11-14日 ※ほぼ中東・北アフリカに該当
・西太平洋:10月25-29日 ※ほぼ東アジア・大洋州に該当

また、9月29-30日には公聴会が開催される。これらを踏まえ、INBのビューローは、非公式の、特定のイシューにフォーカスしたコンサルテーションを専門家などに対して行ったうえで、11月にゼロ・ドラフトを公表する。12月にはINBの第3回会合が開催され、このゼロ・ドラフトが討議に付されることになる。

この討議に参加出来る非国家のステークホルダーに関しては、WHOと効果的に連携する国連およびその他の政府間組織およびオブザーバー、WHOと公的関係を持つ非国家主体、およびINBが決定するその他のステークホルダーとなっており、この中には、国際保健に取り組む多くの非国家主体も含まれている。これはINBの第1回会議で3月22日に採択された「関係当事者の参画に関するモダリティ」(Proposed modalities of engagement for relevant stakeholders)に規定されている。この中で、INBが決定する非国家主体については、各加盟国が推薦する団体などが含まれることとなる。INBはこのような形で公開性と説明責任を担保し、条約制定プロセスの正統性を確保しようとしているが、この方法では、加盟国の対応や、運営の在り方によっては、市民社会の中でも参加できない団体が多く出てくることも考えられる。ステークホルダーの参画に関して、INBには、より包括的で透明性の高い方法の追求が求められる。

「パンデミック条約」のもう一つの隠された問題は、陰謀論の存在である。パンデミック条約交渉が文書の公開や公聴会の実施など、一定の透明性と説明責任を保障した方法で行われているにもかかわらず、同条約について、WHOが各国の主権を制限する超国家主体となることをめざすものであるとか、「ディープ・ステイト」による世界支配の道具であるといった陰謀論が、特に右派勢力から発信されており、国谷地域によっては、「パンデミック条約」をめぐるSNSでの発信の主流となっている現状がある。パンデミック条約による「主権制限」を警戒する国が一定数存在することや、これらの条約の批准について議論する各国の議会において、これら右派・陰謀論勢力が力を増していることを考えると、これらの「陰謀論」は、今後、パンデミック条約の成文化や承認、批准のプロセスにおいて大きな問題になってくる可能性がある。これらの影響を防ぎ、世界全体で人々の命と生活をパンデミックから守るためのグローバルなシステムを形成するためには、透明性と説明責任を高め、市民社会やコミュニティ等を含むステークホルダーの参画を保障することが極めて重要である。