当事者運動の位置、そしてグローバルな正義について

書籍紹介

新山智基『世界を動かしたアフリカのHIV陽性者運動 生存の視座から』/補論:斉藤龍一郎、立岩真也
“HIV positives in Africa made an impact world-wide, letting the HIV positives survive” by NIYAMA Tomoki

生活書院
2011年12月1日 初版第1刷発行
横組み、216ページ/定価:3,000円+税 :
ISBN : 978-4-903690-85-8

『アフリカNOW』No.94(2012年発行)

執筆:野崎泰伸/NOZAKI Yasunobu
のざき やすのぶ:1973年尼崎市生まれ。立命館大学大学院応用人間科学研究科非常勤講師。専攻は倫理学、障害学。大阪府立大学大学院人間文化学研究科修了、博士(学術)。著書に『生を肯定する倫理へ?障害学の視点から』(白澤社、2011年)、共著に『はじめて出会う生命倫理?生・老・病・死を考える』(有斐閣、2011年)。


はじめに

この国でも、HIV / AIDSに関して、広く知られるようになった。いまだ偏見が絶えない病気であるという側面も残念ながらのこっているが、それでも、この病気について聞いたことのない人はもはやほとんどいないであろう。
ただ、そうではあったとしても、HIV / AIDS当事者たちによってなされ続けている世界的な運動が、なにを問題であると訴え、なにをそこから獲得してきたのかに関しては、十分に知られているとは言えない。もとより、HIV陽性者たち本人による運動が行われてきたことすら、世間的には知られていないのではないか。新山さんの著書『世界を動かしたアフリカのHIV陽性者運動』が書店に並ぶということじたいが、HIV陽性者による運動の存在を、日本語読者に知らしめるものとなっており、その意味で非常に画期的かつ意義深いことであると私は考える。
私もまた、新山さんと同じく、HIV / AIDSを専門にする者ではない。新山さんが、同じ感染症である「ブルーリ腫瘍」への国際支援のあり方を専門とされ、その意味において多少なれど近い領域においてなされた研究であるのに対し、私は、哲学や倫理学の見地から、障害者問題を研究している者である。そのような門外漢が新山さんの著書を紹介するのは正直に言って手に余るが、それでも私のような者がどのように読んだかということを書く意味はあろうかとも思い、紹介文の依頼をお受けすることにした。

当事者運動の位置

多くの社会問題においては、その当事者たちが当該の問題を社会に対して告発してきた。社会から当事者であることによって「人間扱い」されないばかりか、端的に言って社会がその人たちの生命をも危機に陥れていること、これらのことを当事者たちは言ってきたし、いまも言い続けている。
本書は、HIV陽性者による当事者運動の歴史と勝ち得てきた成果について書かれたものであり、それ以外のなにものでもない。第1章で挙げられるザッキー・アハマット(Zackie Achmat)やエドウィン・キャメロン(Edwin Cameron)、第2章で取り上げられるTACの活動に加え、第3章と第4章ではそれらの当事者(団体)がいかように世界を変えていったのかが紹介される。その詳細については、ぜひ本文をゆっくりと読んで欲しいが、ここではそのような当事者たちが担ってきた/いる運動について、若干の考察をしてみたいと思う。
当事者運動は、ひとことで言って「かっこいい」と思う。本書でも引用している、ザッキー・アハマットは次のように言っている(らしい)。
「個人的な、良心の問題だよ。私は中産階級に生まれてきた。仲間たちは労働者階級だ。HIVに感染したのが彼らだったら、薬に手が届かない」(p.26)
HIV / AIDSの特許薬は、いわゆる先進国の製薬会社によって薬価が高い。南アフリカでは、このことが大きな要因となって薬に手が届かず、死んでいく患者が続出している。だからこそ、彼らが救われるまで、自分も問題を自分のこととして引き受けなければならない、そうザッキーは言うのだ。
確かに、このように言ってのけるザッキーは素直に「かっこいい」と思う。だが、同時に思いを馳せなければならないのは、ザッキーをしてここまで言わしめてしまう社会のありようであろう。もとより、薬が無料あるいは安価で入手できる社会でありさえすれば、労働者階級も薬を飲むことができたし、ザッキーも安心して治療が受けられたはずだからである。
「当事者が運動を起こさなければ、何も変わっていなかったかもしれない。当事者が行動しなければならない世の中が、本当に平等といえるのだろうか。本書で語った当事者運動は、新たな当事者が過酷な運動を余儀なくされることがないようにするためのものとも考えることができる。HIV / AIDSのみならず、他の感染症、さらには他分野が抱える問題が、当事者が動かなければ変われないのだろうか。そのような世の中を作り上げることは避けなければならない」(p.160)
ここでいう当事者とは、一般的に言って「社会がニーズを満たさないことによって、その人たちが生きづらくなり、あるいは生命の危険にさらされるなどして、社会から捨て置かれている人たち」となるであろう。そうしたとき、「どのように」捨て置かれているのかについては、本人に聞けるなら聞いたほうがよい。なぜなら、本人が直接的にそのことに関しては体験しているのだから。ただ、そのような問題と、その人たちが自身を捨て置く社会を変える責任の問題とはまた別のことであり、後者に関しては、当事者にその責任がないのは明白であろう。捨て置かれたなかにあっては、当事者たちはそもそも主張することすらままならないからだ。
かといって、ザッキーたちを英雄視するのもまた間違っている。確かに、ザッキーたちは勇気があるかもしれない。しかし、ザッキーたちを瀕死の状態に追い込んでいる当の社会が、彼らを英雄視するならば、それは違うだろう。当事者たちが勇気を持たなければ、当事者を当事者たらしめる社会を変えられないとするならば、いわゆる当事者問題は解決されないはずである。だからこそ私は、いわゆる当事者問題にかんして、まず第一義的に当事者以外の社会成員にその問題を解決する義務があると考えている。

グローバルな正義について

では、その「問題解決」にあたって、当事者との距離はどのように関係してくるであろうか。たとえば日本に住む人たちは、日本のなかの問題こそが優先解決事項であり、遠いアフリカの問題に関しては義務が小さいのであろうか。
私は、そんなことはないと考える。補論2で立岩さんも「小さい範囲については『義務』があるが、より広い範囲については『善意』で足りる、そのまともな理由など、探してもない」と述べる(p.186)。私は、それが正しいと思うし、それで議論が終わっているようにも思うのだが、「いや、しかし現実はそうではなく」という反論があるかもしれないので、それについて検討しておく。
現実に、そのひとが行動しやすいから小さい範囲で動くということがある。現実に、そのひとの支援の得手、不得手ということもある。現実に、そのひとが支援が可能かどうかということがある。それらはすべて、現実による支援者にかけられる制約である。当事者との距離の問題も、この制約の問題に含まれる。
一番大きな現実的制約は、私たちがどうあがいても、からだは現在のところひとつしかない、というものである。義務を同時に履行しなければならない場合、この制約から現実には義務を果たすのは無理である。だからひとつの義務を履行するにとどまる。残りの果たすべき義務に対しては「ごめんなさい」と、率直に謝るよりないだろう。その謝罪で許してもらえるかどうかは、相手方しだいであろう。運よく「仕方がなかった」と言ってもらえるときもあれば、烈火のごとく怒られる場合もあるだろう。義務を果たせなかった以上、相手方に「怒るな」と言うのは無理である。
この「相手側に義務を果たせなかったときの態度がゆだねられる」ということがまさに、義務というものが現実の制約というものになんら無関係のものとして措定される性質のものであることを如実に示している。現実の制約が、義務の濃淡や義務の種類を導くことはあるかもしれないが、義務があることそれじたいとはなんら関係がないのである。よって、当事者との距離という現実的制約も、支援する義務の有無とは関係がないのである。

知ったうえで考える

私の関心からは、本書を通して2点の問いを挙げ、非常に駆け足だが考え方の筋道を与えてみた。他にももちろんさまざまな角度で見ることもできるだろう。たとえば、ジェンダーとの関連であったり、教育との関連であったり、その他、読み方は多様に開かれている。しかし、どのような読み方をするにしても、考える前にまず問題を知るところからはじめなければならない。新山さんのこの著書は、私たちが「知る」ということの非常によい導きになるものであり、その意味で私はこの分野、領域において、この著書はまず最初に読まれるべきものであると、力を込めて述べたい。


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