『わたしの南アフリカ』を読んで考えたこと

Thinking from the book “My South Africa”

『アフリカNOW』91号(2011年5月31日発行)掲載

『わたしの南アフリカ ケープタウン生活日誌から』/楠瀬佳子著
第三書館
2010年6月30日 初版第1刷発行
縦組、本文393ページ
定価:2,000円+税
ISBN:978-4-8074-1025-5

執筆:日下 佳奈
くさか かな:大学時代、環境問題を中心に途上国の貧困問題を学ぶ。2009年に卒業。2010年1月に民間企業を退職後、2010年4月~2011年5月まで「動く→動かす」パブリック・モビリゼーション担当インターンを務める。


私が南アフリカと聞いてすぐに思い出すのは、学生時代に行ったヨーロッパ旅行で出会った南アフリカ出身の2人の女子学生のことだ。彼女たちの印象は、私が南アフリカに対して持っていた印象とは正直少し違ったのを覚えている。私は、南アフリカと言うと必ずしもポジティブなイメージではなく、どちらかというと貧困問題や紛争のイメージを抱いていたために、彼女たちと南アフリカのイメージがつながらなかった。南アフリカが発展してきているということは、情報としては何となく知ってはいたが、私はまったく南アフリカのことを知らなかったのだなと思った。彼女たちは年下であったが、とてもしっかりしていて、旅行中のバスで私が男性に思いっきり足を踏まれてしまったときに、その男性にすかさず「謝りなさいよ」と言ってくれたのが忘れられない。とても感激して、何度もありがとうと言った記憶がある。そんな彼女たちと、今ではFacebookといったツールで簡単につながりがもてているのはうれしいことである。
今回、楠瀬佳子さんの『わたしの南アフリカ ケープタウン生活日誌から』を読んでみて、南アフリカの知らなかった部分をコアな視点から知れた気がする。
南アフリカでは、「女性の日」という国民の休日があるそうだ。女性の日という記念日があるということがなにを意味するのかと考える。日本でもジェンダーの問題は多く話されているが、南アフリカではこれまでに、おそらく私の想像を上回る女性への差別が現実にあったのだと思う。私が以前、会社で営業業務をしていた際に、先輩が一度「女性ではなく男性に来てほしい」と言われたという話を聞いたことがあった。日本では、こうした女性への偏見を堂々と口に出す方が珍しくなってきているように思っていたので非常に驚いたが、南アフリカでもまだまだ女性への偏見が強く残ってしまっているようである。「(南アフリカでは)確かに国会議員の女性の数は全体の4割近くになっていますが、だからと言って女性の声が必ずしも反映されているわけではありませんし、日常生活に目を向ければ、ますます女性差別が強化され、女性と子供への性暴力が日常化しています」(p.153)と、楠瀬さんは本書の中で述べている。それにもかかわらず、こうした女性への暴力や性差別に対して政府は沈黙しているそうだ。
女性の立場が弱い中で、ブレンダ・ファシ(Brenda Fassie)という女性シンガーの存在は大きかったように感じた。彼女の曲の中にはネルソン・マンデラのことを歌った曲もあり、女性だけではなく、国民全員の希望的存在であったようだ。私はブレンダ・ファシのことを知らなかったけれども、今回この本に出会ったことで彼女の歌を聞いてみることにした。南アフリカではとても有名で、「ブリンデラ」(Vulindlela :コーサ語で「私たちが学ぶ道を開く」という意味)という曲は南アフリカの非公式の国歌として愛されているほどだという。You Tubeでもこの曲を歌っているブレンダ・ファシの動画がアップされているが(http://www.youtube.com/watch?v=jxOepJiw4K4)、みんながとても楽しそうに歌い、踊っている姿が映されている。他の映像では、ネルソン・マンデラを前に歌を披露している姿もあり、ひとりの女性がひとつの歌で、本当にたくさんの人を笑顔にしているのは力強く、印象的だ。それだけに、彼女が39歳という若さで亡くなってしまったのは非常に残念なことである。ドラッグによる中毒死であったようだ。南アフリカと彼女を取り巻く環境が、彼女の死と無関係とは言い切れないだろう。「私はアフリカ人であることを誇りに思う」と話した彼女が、のちに英語ではなくアフリカ言語で歌うことを貫いた想いを、国民の人たちもまた誇りに思っていたのだろうと思った。
ブレンダ・ファシの歌をはじめとして、本書の中ではアフリカの歴史を伝える手段として、演劇や映画など、文化の紹介も多くされている。南アフリカでは音楽が盛んであるというイメージはあったが、演劇も数多く上映されているとは知らなかった。観客に目と耳で歴史を感じてもらえるという点で考えると、とても重要なものであると再認識した。
また、この機会にずっと観る機会を逃していた映画、「ツォツィ」(Tsotsi)を観ることにした。ツォツィとは「不良」という意味である。この映画は、幼少期に暴力的な親元を離れ、生きるために犯罪を繰り返すようになったツォツィと名乗る少年が、あるきっかけから子供を育てようと試行錯誤するうちに少しずつ心情が変化していく物語である。この映画の中で特に強調されているわけではないが、高級車に乗り、子どもにオムツやぬいぐるみを当たり前のように与えられる環境と、ミルクを与えるためにも必死にならなければならない環境の両極端を見ると、安心して暮らせない人、安心して子育てができずにいる人がいるという現実を改めて思い知らされる。もし犯罪をしなければ食べ物さえ手に入らず、生きていくことが難しいのだとしたら、その環境を変えられるものとはいったい何なのだろう。映画を見終えたあと、改めてそのことが考えさせられた。

本書の中で何回か紹介されているが、エイズの迷信には本当に驚かされた。例えば、HIV陽性者やAIDS患者の男性がヴァージンの女性と性交するとエイズが治るというものである。なぜ、そのような噂が広まってしまったのだろうか。この噂を信じた男性が少女をレイプし、さらには殺してしまう事件が多発しているというから、本当に信じがたい。
このような噂が広まるのは、エイズ教育が普及していない証拠ではないか。私が学生時代、ゼミの研修でタイに行った際には、中学校の子どもたちがエイズ防止について学んだことを劇にして私たちに伝えてくれた。子どもたちは、エイズがどのようにして広まってしまうのかを認識しているように思えたし、子どもたち自身が劇で演じることにより、学ぶ環境が工夫されていた。学校できちんと教師がエイズについて教えること、子どもたちが理解できる環境があることがとても大事なのだと、いま改めて思う。もし南アフリカでもきちんとしたエイズ教育が普及すれば、迷信が広まり、少女が犠牲になるという許しがたい事件を、少なくとも減らすことはできるはずではないか。子どもたちへの教育はもちろんのこと、大人への教育もまた重要なのだ。
しかしながら、南アフリカにおける教育問題は少し複雑なようである。南アフリカでは現在、11の公用語がある。標識などで表示する際には、いったいどの言語を最初に表記し、どのような順番にするのだろうという疑問が自然と浮かんでくるが、その点で争われることもあるのかもしれない。11の公用語がそれぞれきちんと大切にされるのは大変難しいことなのだと思う。実際、マルティリンガリズム(多言語使用)が推進されている中で、教育現場においては、多くの学校のカリキュラムとしてアフリカ諸言語の学習が導入されることには抵抗があるそうだ。「アフリカ言語の促進どころか、英語の位置が強化される傾向にある」(p.59)という楠瀬さんの指摘が妙に印象に残った。
日本でも英語教育がどんどん進み、小さなころから学んでいる子どもたちがたくさんいるが、母語である日本語をきちんと理解してこその英語教育であるように思うし、英語を学ぶ姿勢は自由である。最初から、母語で勉強する権利を奪われてしまうのはおかしなことなのだと、今まではあまり意識していなかったのだが、本書を読んで強く思った。
母語には、その国らしさ、民族らしさがあり、昔から言い伝えられている物語や文化を伝えていくためにもとても重要だ。同じような言葉に翻訳したとしても、やはり本来のニュアンスや優しさが伝わりにくくなってしまうだろう。それぞれの民族が持つ個性を大切にするためにも、母語で話し、また教育が受けられることは最低限、守られるべきである。南アフリカではアパルトヘイト時代に、英語とアフリカーンス語が主要言語になり、アフリカ人(アフリカ系の各民族)の母語であるアフリカ諸言語は公教育の場では使われなかったという。
そんな中、ケープタウン大学人文学部に所属する研究者プラエサが組織した読書クラブが広まっている。読書クラブは、母語の大切さを子どもたちだけではなく、教師や親たちにも伝える機会とすることを目的としている。読書クラブの活動は主に、ケープタウンのアフリカ人タウンシップであるランガで行われており、ケープタウンでは有力言語であるコーサ語と英語で絵本の読み聞かせをしているそうだ。読み聞かせのあとは、どのような印象を持ったかどうかを子どもたちが画用紙に描いたり、コーサ語で歌ったりと、さまざまなレクリエーションも行われ、子どもたちにとっては友だちとの交流の場にもなっている。
どこの国でも、絵本から言葉を学び想像力を養うということは一緒なのだなと思う。子どもたちには学ぶ想像力が必要であるし、そのためにも母語で学び、話せることが精神面でも大切であろう。当たり前に日本語があふれ、日本語で学ぶことができる私には最初は想像しにくい部分もあったが、この本を読んでいるうちに、母語の重要性をとても考えさせられる。
楠瀬さんは、この読書クラブにも深く関わっていた。ある日、日本の歌を紹介してほしいという読書クラブの子どもたちのリクエストに応えて、「幸せなら手をたたこう」を歌ったところ、子どもたちも英語のパートを歌い出したそうである。私が思わず思い出したのは、学生のときにフィールドスタディーでカンボジアの村へ行ったときのことだ。村の子どもたちとは1週間も一緒にいられたのではないが、最終日には「幸せなら手をたたこう」を、なんと日本語で歌ってくれた。楠瀬さんと同じように、「歌に国境がないとはこういうことなんだな」と実感したことを思い出し、とても懐かしい気持ちになった。
歌、絵本、演劇など、文化に触れて生活するのとしないとでは、子どもたちの成長にとって大きな差が出てくると思う。文化から学べる想像力や感性といったものは、子どもたちにとってとても重要であるし、人格形成にも関わってくるものだと思う。母語で、自分たちの文化を感じる機会を大切にできること、また、南アフリカでアフリカ諸言語が差別の対象ではなく、当たり前に話すことができる環境を整えていくことが早急に求められているのだということを、実感した。
今回この本を読んでみて、南アフリカが過去の暗い記憶から少しずつ変化を遂げてきている様子や、それでもまだまだ多くの課題が残されていることを知った。言語の重要性を感じられたことは、私にとってとても意義のあることであったし、南アフリカの文化もとても興味深かった。特に、音楽の紹介は入り口としてとても入りやすかった。これからも南アフリカの文化や歴史を少しずつ知っていきたい。その中で、なにか自分がこれからできることとリンクさせていくことができたら良いと考えている。


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