Women 〜アフリカ映画祭で上演された「フレーム」を見て〜

『アフリカNOW』32号(1997年12月5日発行)掲載

執筆:中野 智之

9月20日から26日まで、東京・吉祥寺で開催されたアフリカ映画祭で上映された22本の映画の中から、「フレーム」というジンバブエの女性監督イングリッド・シンクレアの作品を紹介したい。

映画はある女性がムジという農村から首都ハラレに向かうため家族と別れるシーンから始まる。その女性がこの映画の主人公フローレンスである。彼女がハラレに着き、真っ先に向かったのは幼なじみであり、またともにジンバブエ独立のために戦ったナシャの勤める会社である。思わぬ訪問者に動揺し、出直すようにとタクシー代を渡そうとするナシャ。フローレンスは、15年ぶりに会った戦友のそっけない態度にショックを受け、走り去る。フローレンスがハラレの町をさまよい、たどり着いたのはナシャの住むアパート。フローレンスはナシャの部屋のドアに、彼女らがまだ戦士だったころ一緒に撮った写真を貼り、立ち去る。すれ違うようにアパートに帰ってくるナシャ。そこで、舞台は1975年のムジ地区農村に遡る。

将来の夢について語り合う二人。都会に行って勉強をしたいというナシャに対して、幸せな結婚生活を夢見るフローレンス。しかし、時代は独立戦争の最中。二人が住む村で夜な夜なゲリラの集会が開かれていた。その集会に参加するうち、フローレンスはゲリラの一人同士デインジャーと知り合う。同志デインジャーにゲリラ活動に加わるように勧められるが、父親の反対にあい悩むフローレンス。その最中、父親が密告によってローデシア軍により連行され、彼女の心が決まる。フローレンスはナシャと共に、ゲリラ活動に参加するため家を出、モザンビークのゲリラ基地まで歩いていく。二人はゲリラ基地でゲリラとしての名前を、フローレンスはフレーム、ナシャはリバティと名乗りゲリラとしての訓練が始まる。ある夜の宴会で、フローレンスは同志チェに体を奪われる。同志チェは後日、自分の行いを責め、謝罪する。そうした姿にフローレンスは、同志チェを許し、自分から彼と関係を持つ。その後二人の間に子供が生まれ、フローレンスはボンド(戦争)と名づける。フローレンスは子供との生活に幸せを見出すが、ローデシア軍の奇襲攻撃により、ボンドだけでなく愛する同志チェさえをも失ってしまう。全てを失ったフローレンスの前に同志デインジャーが現れ、二人は愛し合うようになる。そうした姿を見たナシャは、フローレンスの男に対する甘さを非難し、二人の間に深い溝ができる。時間が経ち、フローレンスは伝説的な女戦士となり、ナシャは選ばれて大学に入る。戦争が終わるとフローレンスはデインジャーと共に故郷ムジに帰る。かつての女戦士であったフローレンスは村では、子供を背負い畑を耕す農村の女となる。しかし、農村での生活は決して楽ではない。夫デインジャーは生意気という理由で会社を首になると、ただ無為に飲み屋で時間を過ごすようになり、フローレンスにも辛く当たり、時には暴力を振るうようになる。そうした生活に耐え切れず、フローレンスはハラレに行くことを決意し、家を出る。

舞台は再びハラレのナシャのアパート。写真を見て、フローレンスを呼び止めるナシャ。二人は15年間の溝を埋めるように、語り合う。翌日は「英雄記念日」であった。二人はかつての同志の家に出かけるために家を出る。舞台は変わり同士の家。記念式典の模様をテレビで見ながら、かつての独立の戦士で二人の同士が一体誰がヒーローなのか問いかける。その時二人が登場し、再会を喜び、かつて共に踊った踊りを踊って映画が終わる。

この映画の中でとても印象的なシーンがあった。15年間の月日を経て再会したナシャとフローレンスが語り合うシーンである。フローレンスがかつての二人は「ヒーロー」であったというのに対して、ナシャが自分たちはヒーローではなく「女性(Women)」であったと答える。私はこの「女性」という言葉には非常に深い意味が込められていると思う。それをどう汲み取るかは、おそらくシンクレア監督がこの映画を見た人に課した宿題なのかもしれない。

96年のカンヌ映画祭で、南部アフリカ映画で初めて「監督週間」部門に選ばれただけあって、ジンバブエの生活を非常に自然な形で描写している素晴らしい作品である。また、独立戦争の元兵士の中で、戦争後成功をつかんだものがいる一方、大多数が農村で厳しい生活を強いられているという問題、農村での女性の過酷な労働等、ジンバブエが抱える今日的な問題も描かれており、興味深い。


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