日本反アパルトヘイト女性委員会の1985-1988年を振り返る

Activities of Japan Anti-Apartheid Women’s Committee 1985-1988

『アフリカNOW』110号(2018年3月31日発行)掲載

特集「反アパルトヘイト運動と女性、文学」にあたって

※本稿は、2017年5月27日に開催された研究会「反アパルトヘイト運動と女性、文学」における佐竹純子さんのスピーチをまとめました。

佐竹 純子
さたけ じゅんこ:プール学院短期大学教授(英語、国際理解、ジェンダー論など担当)。大阪大学外国語学部非常勤講師(アフリカ文学講義担当)。関西・南部アフリカネットワーク世話人。AJF 会員。英語で書かれた南アフリカ文学、特に黒人女性による自伝的作品を中心に歴史的・社会的状況の中でジェンダーの視点に注目しつつ研究。文学に表現される人びとの世界観や生活様式の変化、口承と記述の相互作用、また音楽、演劇、映画との関連性にも関心がある。


日本反アパルトヘイト女性委員会の発足

今日は、日本反アパルトヘイト女性委員会( 以下、女性委員会)のメンバーだった時のことを中心に話します。その活動の延長線上で、現在は関西・南部アフリカネットワークの世話人の一人になっています。また、文学についても少し付け加えたいと思っています。特にライフヒストリーとか、語りをどう記録するかということについて、女性委員会の中でも勉強しましたので、それはおのずと出てくると思います。

配付資料として、『アベシファザーネ』という通信の0号から15号までの主な内容一覧と、『ローズと、ノンヴーラと、南アフリカのふつうの女たち』という当時、私たちが作った冊子の表紙コピーを用意しました。今から思えば、著作権や肖像権などの問題だらけなので、通信をPDF にすることも躊躇しました(1)。通信の名前『アベシファザーネ』は、ズールー語で「女たち」という意味です。大阪のトーマス・カンサ(Thomas Kansa)さんという南アフリカの方にズールー語を教えてもらい、アドバイスを受けて、名づけました。

女性委員会の創設メンバーは3人の女性でした。いろいろ助けてくれたゴードン・ムアンギ(Gordon Mwangi)さんが「3人のマリア」と名づけたので、そんなふうに言われていました。第1のマリアはリーダー的な人、第2のマリアは音楽やポップスが好きで反アパルトヘイトに入ったという一番若い人、そして第3のマリアが私でした。みんなが代表と言っていました。男性中心の運動体の中で、どうしても女性が補助的な役割になってしまうのに対し、自分たちで何かを成し遂げたい、力をつけていきたいという思いがあり、女性だけの委員会を作ったのです。当時、私たちは、黒人意識運動(Black Consciousness Movement)(2) のことをとても考えていました。白人中心の社会の中で、黒人たちが自らさまざまな活動をしていく、そして、植えつけられた差別を乗り越えていくことと、女性が力をつけていくことをつなげたいという話もしていました。

女性委員会が始まったのは1985年8月9日です。8月9日は、1956年に女性たちがアパルトヘイトに反発する行進をした日で、現在、南アフリカでは「女性の日」の祝日になっています。女性委員会は1985年のこの日、大阪で始まりました。そのきっかけは2つありました。ひとつは、『女性とアパルトヘイト』という冊子です。私たちは、大阪の反アパルトヘイト市民グループ、こむらどアフリカ委員会のメンバーで、大阪で活動してきた運動体の中で出会った女性メンバーたちでした。1984年は、アフリカ民族会議(African National Congress : ANC)の南アフリカ女性の年でした。ANCの呼びかけに応える形でがんばってつくりました。『女性とアパルトヘイト』という国連が出していた英語の冊子を訳して印刷したのです。大変な作業でしたが、作っていく中で少しずつ力をつけていくという経験でした。冊子の付録として、私が初めて翻訳したグラディス・トーマス(Gladys Thomas)の『バラ模様の壁紙』(The Rose Patterned Wallpaper)という南アフリカの雑誌”Staffrider”(3) に掲載されていた短編も入っています。

そして、1985年に女性委員会をつくる直前に、日本反アパルトヘイト委員会(Japan Anti-apartheid Committee : JAAC)から派遣されて、タンザニアのアルーシャでの会議に参加しました。その会議への参加が女性委員会発足の2つ目のきっかけと言えます。この会議は、「アパルトヘイト下の女性と子ども」というテーマで、国連の反アパルトヘイト特別委員会やタンザニア政府が協力して行った会議でした。JAAC に助けられ、資金的には世界キリスト教協議会(World Council of Churches : WCC)の支援も受けて行きました。その時に提出・発表した英文のペーパーは、回覧しているファイルに入っています。

その会議で、実際に南アフリカの解放運動の女性たちに会い、「女性たち、しっかりしいや」という言葉を受けて、「はい、がんばります」と帰ってきて、その延長線上で女性委員会をつくったということです。

女性委員会の活動

タンザニアに行ったとき、もうひとつ目的がありました。日本反アパルトヘイト委員会でソロモン・マシャング・フリーダム・カレッジ(Solomon Mahlangu Freedom College : SOMAFCO)の支援をしていました。SOMAFCO は、特に1976年のソウェト蜂起以降、南アフリカから亡命せざるを得なくなった若者たちを支援するために、ANC がスウェーデンやノルウェー政府などの支援を受けてつくった学校と住まいです。会議の後、タンザニアのモロゴロにあったSOMAFCO を訪ねることにしました。女性委員会も最初の活動としてSOMAFCO 支援に力を入れ、資金だけでなく文房具などを集めたりもしました。その後、パン・アフリカニスト会議(Pan Africanist Congress : PAC)の女性とも出会い、ANC、PAC 両方の支援をしようと、文房具を中心にものを集めて船で送る活動をしていました。

女性のライフヒストリーを中心とした英文読書会にも力を入れていました。それを訳して南アフリカの女性たちのことを伝えたかったのです。関西の三里塚闘争に連帯する会の事務所や、「つゆ草小屋」という市民運動でよく知られた場所で読書会を始め、その後もフェミニストのグループが集まるスペースなどを使って何度も英文読書会をして、みんなで訳していきました。創設メンバーの「3人のマリア」に他の女性たちも加わってだんだん増えていったのです。

そして、通信発行も始めました。この『アベシファザーネ』の発行は、ものすごくしんどかったのですが、自分たちのやりたいこと、南アフリカの女性たち、あるいは、南アフリカで起こっていることを伝えたいと発行していました。

集会出前もやりました。出向いて、アパルトヘイトについて、特に女性たちの抵抗について、それから、文学、音楽といった切り口から話しました。5人以上が集ったら交通費と資料代実費だけ出してもらいます、という形でやっていました。

『ローズと、ノンヴーラと、南アフリカのふつうの女たち』

女性委員会が発足した1985年には、バルンギレ・シェンベ(Balungile Shembe)さんというANC 青年同盟の女性を呼んでの講演活動を、いろんな人たちと一緒に準備してやりました。活動の中心になったのが、大阪の部落解放同盟の青年部でした。1980年代は、部落解放運動や在日コリアンの指紋押捺拒否の運動が、関西で非常に大きな広がりを見せていた時期でした。そういった運動からいろんな形で学びながら活動していました。大阪の反アパルトヘイト運動は、様々な運動から学びながら活動していたのが特徴だったと思います。女性委員会は、女性グループ、特に関西のフェミニストのグループとつながって、フェミニストのフェスティバルに参加したりもしました。

そういう中で、南アフリカの解放運動の女性たちが、運動のまさに最前線に立っているとしたら、そういう意味での最前線にいなかった女性たち、当時は「普通の女たち」と言っていたのを今日は「草の根の女たち」と言いますが、その女性たちの声を聞きたい、伝えたいという思いが強くあって作ったのが、『ローズと、ノンヴーラと、南アフリカのふつうの女たち』という冊子でした。それを作るために、読書会でたくさんの女性たちの声を英語で読んで、その中からみんなで選んで作っていったんです。

ローズとノンヴーラというのは、工場労働者、清掃労働者で組合活動もしている女性たちです。女性委員会の創設メンバーの中には、日本の中で強く差別を受けて、それを乗り越える時に反アパルトヘイト運動と出会って、そこからすごく力を受けたという人もいました。反アパルトヘイト運動には、教育者、研究者など、社会的に強い立場にいる人たちが多く関わっていました。そういう人たちから、かなり上から目線で見られるという経験もしたそうです。フェミニズム運動の中でも、当時、大学の教員たちの影響力というのがあり、そういったことに対してもかなり批判的に見ているメンバーもいました。今から振り返るとこの冊子の作成は、南アフリカの中でも、日本の中でも、いわゆる草の根の女性たちがつながることを願っての取り組みだったと、感じられます。

性役割をめぐる議論

あと、活動の中での典型的な例をお話しておきたいと思います。1988年にJAAC の主催で反アパルトヘイト・アジア・オセアニア・ワークショップを開催しましたが、その時、性的役割分担とは何か、女性と男性の性役割をめぐる議論を投げかけました。

女性が補助的な業務を運動体の中でもして、男性がリーダーシップをとり、意思決定の中心になる、というふうになりがちでした。性役割をそんなふうに固定化してはいけないと伝えたかったのだけど、言葉が足らないとかもあって、東京の女性たちからも批判されたり、大阪の中でもいろいろ議論になったり、逆に、東京に限らずいろんな地域からすごく応援してくれる女性たちの声を聞いたりしました。思えば1985年は、日本が国連の女性差別撤廃条約を批准し、男女雇用機会均等法ができたという年でした。私が大学に入学した1980年は、女性差別撤廃条約ができたばかりで、それがすごいんだよ、なんていうことを先輩の女子学生から聞いていた。そうやって強く意識していたので問いかけをしたのだと思います。

でも、性役割のことはいわゆるジェンダーの領域だけじゃなくて、いろんな社会的な関係で見る必要があって、この時は単純化して見ていたと思います。他方で、性役割の固定化というのは、いまだに日本社会の中で課題だということもつくづく感じています。

アフリカ文学との出会い

最後に、文学に少しだけ戻ります。大学に入って、英文科の中でアフリカ文学に出会いました。1981年、グギ・ワ・ジオンゴ(Ngũgĩ wa Thiong’o )の講演がきっかけでした。ジンバブエ独立直後で、その独立の際にしたスピーチを基本に、グギが私のいた大阪女子大学で講演したのです。その後、南アフリカの文学も読むようになりました。恵まれていたというか、大学に3人、アフリカ文学を何らかの形で扱っている教員がいました。みんなアフリカ文学が専門ではなかったのですが。

チヌア・アチェベ (Chinua Achebe) をゼミで読んでいた教員がいました。女性作家、ブチ・エメチェタ(Buchi Emecheta) とフローラ・ンワパ(Flora Nwapa)の作品を読んでいるゼミもありました。3人ともナイジェリア人の作家です。西洋思想史批判をやっているような授業もあって、そこではアチェベがアフリカ文学について語ったり、西洋の文学を普遍的としてしまうことについて批判しているエッセイを丁寧に読みました。そして、アレックス・ラ・グーマ(Alex La Guma) のようにANC の活動家であり、小説家でもある人の作品を読むようになったわけです。

それで、机の上の文学だけやっていてもしゃあない。やっぱり、反アパルトヘイト運動にも入ってと思い、こむらどアフリカ委員会の下垣桂二さんに電話することになったのです。

その後、自伝、ライフヒストリーをずっとテーマとして追っていく中で、なかなか表には出てこなかった解放運動組織の中の暴力の問題だとか、HIV/エイズが広がっていることを知るようになりました。一つだけ例を挙げておくと、アレックス・ラ・グーマが1985年に亡くなった後、妻のブランチェ・ラ・グーマ(Blanche La Guma)が出した自伝の中で、ANC の中の性暴力の問題がうわさになっていて、とても怖かったということも書いています。

今から思えば、その後のことにつながること、あるいは批判的に振り返らなあかんこともあったとも思います。1985年から1988年のことを中心に振り返る中でそんなことを思い返しました。

(1) 『アベシファザーネ』や『ローズと、ノンヴーラと、南アフリカのふつうの女たち』など、日本反アパルトヘイト女性委員会の刊行物は立教大学共生社会研究センターに所蔵され、一般に公開されている。資料についての問い合わせは同センター(03-3985-4457)まで。

(2)スティーヴ・ビコ(Bantu Stephen Biko)などが1970年代に提唱した思想運動。黒人の精神的解放の重要性を強調した。

(3) 1978年に創刊された南アフリカの文学雑誌で、多くの草の根の作家の作品発表の場となった。

>>「反アパルトヘイト運動と女性、文学」発言者の対談「南アフリカにおける草の根の女性の闘いと文学の可能性」


特集「反アパルトヘイト運動と女性、文学」にあたって

牧野久美子

本特集は、2017年5月27日に東京外国語大学本郷サテライト(東京・文京区)で開催された公開研究会「反アパルトヘイト運動と女性、文学」の記録をもとに構成しています。本誌では過去に、No.102(2015年4月発行)の特集「いま日本の反アパルトヘイト運動から学ぶ」、No.105(2016年6月発行)の特集「反アパルトヘイト運動から民主化後の関わりへ」の2度にわたり、日本の反アパルトヘイト運動の経験を振り返る記事を掲載してきました。本特集はその第3弾にあたります。
研究会の基調講演者の佐竹純子さんとくぼたのぞみさんは、ともに日本反アパルトヘイト委員会(JAAC)の活動に参加されていました。佐竹さんは大阪で反アパルトヘイト女性委員会をつくり、くぼたさんはJAAC の東京のグループであるアフリカ行動委員会のメンバーでした。本特集のなかでお二人は、1989年8月に「女性の日」キャンペーンとして南アフリカの女性作家や活動家3名を日本に招いた際のエピソードや、南アフリカの女性の状況を日本に伝えるための翻訳活動、そして人種差別の問題と闘う運動内部の性差別や性役割の問題などについて、詳しく語られています。
また、反アパルトヘイト運動を経て現在までアフリカ文学の翻訳や研究・交流活動を続けていらっしゃるお二人ならではの、アパルトヘイト時代およびポスト・アパルトヘイトの現在の南アフリカの文学をとりまく状況、そして文学のもつ力、可能性についてのお話は、大変興味深いものがあります。
あわせてコメンテーターの津山直子さんからは、アフリカ民族会議(African National Congress: ANC)東京事務所スタッフとして、またその後の日本国際ボランティアセンター(JVC)の南アフリカ現地代表としての活動経験を踏まえて、南アフリカの草の根の女性たちのアパルトヘイトとの闘い、また、民主化の過程において女性たちが果たした先進的な役割について話していただきました。
佐竹さんやくぼたさんが翻訳・執筆に関わられた冊子やニューズレターなどを含む、JAAC の資料は、立教大学共生社会研究センターで「反アパルトヘイト運動関連資料」として保存・公開されています(その一部はPDF 版も公開 http://www.arsvi.com/i/aajp_top.htm。同資料がJAAC の楠原彰さんと下垣桂二さんから寄贈されたことを記念して立教大学で2016年12月17日に行われたシンポジウムの記録が以下にまとめられていますので、あわせてご参照ください。
「立教大学共生社会研究センター主催公開講演会『 反アパルトヘイト運動を記憶する』講演・質疑」http://hdl.handle.net/11008/1350

謝辞:本特集のもととなった研究会の実施にあたっては、JSPS 科研JP26380227の助成を受けました。


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