陰謀論がむしばむパンデミック条約と国際保健規則

政治主義的な陰謀論を排しつつ、反対論の広がりは
事実として受け止め教訓とすることが必要

パンデミック条約陰謀論をファクトチェックするドイツのニュース番組ウェブサイト

世界保健機関(WHO)が新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関する「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」(PHEIC)を解除してから1年、国際社会では、パンデミックなど公衆衛生上の緊急事態に対する国際的なルールの要となる国際条約である「国際保健規則」(IHR)の改定と、パンデミックへの予防や備えに関する多国間協定となる「パンデミック条約」の策定作業が、この5月をめどに急ピッチで行われている。一方、これらをめぐって、「WHOを超国家主体として国家主権の上位に君臨させようとするものだ」「ワクチン接種などに関して、各国で独自の政策をとれなくなる」といった懸念や反対論が、各国で巻き起こっている。日本でも、パンデミック条約反対を掲げる議員連盟が超党派で結成されているほか、都内で少なくとも数千人が参加する集会等も開催されている。

日本を含む世界各国でCOVID-19に取り組んできたNGO・市民社会は、これらの条約が、世界の全ての人々を守り、公平な医薬品アクセスを保障し、最大限の安全を保障しつつ迅速かつ効果的にパンデミックを克服できる多国間の枠組みとなるよう、政策提言を行ってきた。現在、世界で広がる「国際保健規則」「パンデミック条約」反対論は、こうした市民社会の立場に照らして、強く懸念されるものである。というのは、これらの反対論は、米国の極右陰謀論者などの主張を起源とする、多国間主義に反対する政治主義的な陰謀論によって焚きつけられた、事実に基づかない内容を多く含んでいるからである。一方で、こうした反対論の広がりから、現代世界において私たちが克服しなければならない課題も見えてくる。以下、これらの「反対論」の実像を確認しながら、なぜ、これらの条約が必要なのかについて考察していきたい。

市民による監視は必要不可欠

最初に確認しておくべきことは、緊急事態に関わる条約や国内法の策定や運用に関して、市民による監視は必要不可欠であるということである。災害やテロ、戦争などを理由に、過度に人権や自由を侵害する法律が制定され、政府がこれを反対勢力の弾圧や市民の監視強化に活用したケースや、国際条約が市民に知らされないままに制定され、多くの人々が不利益を被るといった事例は、歴史的に数多くみられてきた。また、製薬業界等の利権を守るため、医薬品の安全性が犠牲にされた結果、多くの薬害が生じてもきた。こうしたことを防ぐには、市民が立法や行政等の権力を監視し、医薬品の安全性についての主張を強力に行い、国の意思決定に参画していくことが不可欠である。これはパンデミック予防・備え・対応に関する国内・国際の法整備においても同様である。

なぜパンデミック条約が必要か?

問題は、今進められている国際保健規則の改定やパンデミック条約の策定の動きが、これらの反対論において述べられているような、パンデミックという「災害」に際して、各国の主権や人々の人権・自由を過度に制約したり、先進国の製薬企業といった特定のセクターの利権を確保するためのものなのか、という点である。

「国際保健規則」は、既にある条約であり、その設置目的は、条文にも明記されているように、公衆衛生上の方法により、国際的な交通や貿易への不要な影響を避けつつ、感染症等の疾病の国際的な伝播を予防し、対応を準備し、人々を守り、こうした疾病を征圧することである。また、「パンデミック条約」の目的は、パンデミック等の公衆衛生上の緊急事態に備え、対応する能力が国によって異なり、世界全体で効果的な対策をとることが困難な現状を踏まえ、パンデミック対策に必要な様々な課題について、世界的な協力体制を構築することによって、最大限の安全を保障しつつ、できる限り公平かつ迅速、効率的な対策を実施できるようにするということである。私たちはCOVID-19を経験して、気候変動や生物多様性の喪失、全世界レベルでの交通網の発達と人や物の移動の増大、貧困や格差の拡大などでパンデミックが生じる可能性が以前よりも各段に高い、本格的な「パンデミック時代」の到来を認識するに至った。これらの国際法の整備は、こうした状況を踏まえ、日本を含む各主権国家が、その必要性を認識して行っていることである。

パンデミック条約交渉は国際交渉の中でも透明性が高い

日本国内では、これらの条約に関して「国民に知らされないところで」決定されている、という懸念が強く語られている。歴史を振り返っても、陰謀論は人々の参画が困難で政策決定過程における透明性が低い課題において広がることが多かった。実際に、これらの条約の交渉に関する議論はマスメディアなどを通じて日本語で報道されることがほとんどなく、信頼に足る一般的な情報ソースがあまり存在していないことは事実である。それは、これらの条約の交渉に関する情報が公開されず、不透明な形で進められてきたからだろうか。

実際にはそうではない。国際保健規則、パンデミック条約とも、「多国間交渉主体」(INB)の交渉における全体会(プレナリー・セッション)はインターネット中継され、録画はいつでも、誰でも見ることができる。国際保健規則に関する各国の改定案や、パンデミック条約の草案もWHOのウェブサイトの「INB」ページ公開され、誰でもアクセスすることができる。また、加盟国のみならず、各国で感染症対策や保健に取り組むNGO・市民団体や関連団体は、加盟国の推薦などにより「適格なステークホルダー」の地位を得て交渉に参加し、意見の表明を行うこともできる。非公開なのは各国代表団のみが参加する「起草グループ」の会合であるが、これについても、各交渉会合の最後に開かれる全体会で報告・議論されたうえ、終了後、報告書が公開されるほか、「Health Policy Watch」や「Geneva Health Files」などの専門メディアが調査報道を普段から行っており、一定程度は知ることができる。そもそも、この交渉は、一部の有力国のみが参加するG7やG20、また、出資額に応じて各国の発言権が異なる世界銀行や国際通貨基金(IMF)の会議、特定国間の自由貿易協定などと異なり、WHOに加盟する194国・地域すべての政府が対等な立場で参加し、討議を行っているのである。

交渉の内容が「国民に知らされていない」「国民が参加できていない」とすれば、問題はむしろ、この条約の重要性(ひいては多国間交渉の重要性)を軽視し、ほとんど取り上げてこなかった日本や各国の主流メディア、また、各国民に向けて交渉の情報を各国語で十分に公開していない各国の政府にあるということができる。なお、日本政府はパンデミック条約については外務省が、また、国際保健規則については厚生労働省が、日本語で各交渉会合の情報などの発信を行っている。

交渉は主権国家が主人公:「主権が譲り渡される」は「誤り」

現在高まっている反対論の最大の問題は、これが多国間主義に反対する政治主義的な陰謀論に引きずられていることである。その最大の主張が、「この条約はWHOを各国の主権の上に置く『超国家主体』とすることを狙っている」というものであり、その背景には、この条約が、これら陰謀論者がいうところのいわゆる「ディープステート」(これらの論者は、「世界を裏で支配する『闇の勢力』」が存在すると考え、これを「ディープステート」と名付けている)によって構想されたものであるとする陰謀論がある。しかし、実際に交渉で生じていることを見れば、これが荒唐無稽であることは明らかである。

そもそもパンデミックのような地球規模課題をめぐる多国間交渉とは、世界が共通に直面する課題について、各国がその主権を行使して交渉を行い、それぞれの国益を踏まえた合意を作って課題に取り組み、解決に結びつけることで、各国が共通の利益たる国際益とそれぞれの国益を得ることを目的とするものである。その主人公は主権国家であり、これらが自ら、主権を国際機関に譲り渡す、ということは原理上あり得ない。実際、今回も、各国は自らの主権を最大限行使して、世界規模のパンデミック対策において自らの国益を確保しようと懸命な交渉を行っている。特に途上国・新興国を主体とするグローバルサウス諸国は、COVID-19パンデミックにおいて、検査、予防、治療において効果の高い医薬品を確保することができず、結局、自らの主権において国民の生命や健康を守ることができなかったという失敗を踏まえ、団結して「公平な医薬品アクセス」という命題を打ち立て、強力な外交交渉を展開している。この意味で、この交渉は特にグローバルサウスにとっては、主権の委譲などではなく、自国民の命と生活を守ることができるような国家主権を確立するための闘いとして位置づけられているのである。

「グローバル製薬企業の利益を守る条約」という認識も「誤り」

この条約をめぐるもう一つの反対論が、「この条約は『グローバル製薬企業の利益を守る』ための条約」という主張である。条約を制定することによって、これらの業界がワクチンや治療薬を強制的に高値で買わせることが可能になる、という主張であるが、実際に交渉で議論されていることを見れば、これも荒唐無稽であることがわかる。

この交渉で問われているのは、医薬品アクセスに関する「グローバルな公平性」である。途上国はこの条約によって、パンデミック対応医薬品の製造技術の移転や医薬品の製造能力強化、さらには、パンデミックの病原体に関する情報への迅速なアクセスと引き換えに、これらの情報によって開発された製品およびその利益に関する公正な配分を求めている。条約にこうした条項を盛り込むことに反対しているのが、COVID-19パンデミックにおいて公平性よりも企業利益を最大化する戦略をとり、巨万の利益を得たグローバル製薬企業とその業界である。実際、この「病原体情報へのアクセスと利益配分」(PABS)に関して、国際製薬団体連合会(IFPMA)のトーマス・クエニCEOは「悪い条約なら、ないほうが良い」とまで発言している。

WHOに対する根拠のない批判も、この荒唐無稽な主張の「論拠」となっている。すなわち、WHOは「製薬企業と結託した『ビル&メリンダ・ゲイツ財団』などによって買収され、製薬企業の尖兵と化した」といった主張である。しかし、実際にはWHOは、アフリカ出身のテドロス事務局長のもと、COVID-19において、あくまで途上国を含む世界全体の公平な医薬品アクセスを促進する立場に立ち、COVID-19に関する医薬品や関連製品等の知的財産権の共有を図る「COVID-19関連技術アクセス・プール」(C-TAP)の設置をはじめ、途上国への医薬品製造技術の移転の促進に積極的な立場で様々な取り組みを行った。その結果、WHOはIFPMAなどのグローバル製薬業界から厳しい非難の対象となっている。市民社会は常に「各国の利害から独立した、科学的で強いWHO」を求めてきた。WHOは分担金の減少などで独立性の維持に課題を抱えているものの、COVID-19時に公平な治療アクセスの立場を貫いたことからも明らかなように、「グローバル製薬企業の尖兵」などにはなっていない。根拠のない決めつけは、WHOの独立性をさらにむしばみ、結局のところ、グローバル製薬企業による利権や技術の独占を利するものにしかならない。

反対論の広がりから得られる教訓

「国際保健規則」「パンデミック条約」に関して、現在広がっている懐疑論、反対論の多くは、多国間主義に反対する政治主義的な陰謀論の影響を受け、大きく歪んでしまっている。このような陰謀論や懐疑論に陥らず、事実に基づいた建設的な関与・参画を行うことが、これらの交渉に関与する市民社会にとって極めて重要である。

一方、これらの反対論は、グローバルなパンデミック対策に関わる市民社会に対して、また、日本をはじめ、交渉の「主人公」となっている各主権国家の政府に対して、また、メディアに対して、大きな課題を投げかけている。一つは、単に文書や会合の動画を公開して交渉過程の透明性を高めるだけでは、反対論を抑えることはできず、各国語で情報を普及し、既存メディアにおいて事実に基づいた報道を促進し、SNSにおいても、事実に基づいた情報が流通するようにしなければ、各国で市民レベルに届く情報の乏しさに巣くう陰謀論は駆逐されないということである。

もう一つは、パンデミックに際して、医薬品開発の迅速性を追求するあまり、医薬品の安全性が損なわれないようにすること、また、副作用等について、事前の段階から情報の公開と透明性の確保、被害の救済についても積極的に行い、副作用がある医薬品にアクセスしない権利についても十全に保障する必要があるということである。特にワクチンや検査、各種の予防手段については、治療薬などと異なり、患者・感染者のみならず、全ての人にかかわる課題である以上、その効果や副作用等について、早い段階から積極的に情報の公開と透明性の確保に努める必要がある。さらには、安全性や副作用への懸念からワクチン接種に消極的な人々が社会的な烙印を押されたり、社会から排除されたりすることがないようにしなければならない。このことは、これらの条約に対する反対論の国内外でのいわば「爆発的な広がり」に対して、為政者や、課題に取り組んできた市民社会を含むステークホルダー全てが教訓とすべきところであろう。