5月27日から開かれていた世界保健機関(WHO)の第77回世界保健総会(WHA)は、6月1日に予定通り、全ての討議を終了した。最も注目が高かった、パンデミック予防・備え・対応(PPPR)に関わる二つの条約、すなわち、国際保健規則(IHR)の改定とパンデミック条約の策定に関する討議については、国際保健規則については改定が成立したが、パンデミック条約については、期間中に途上国(グローバル・サウス)における医薬品アクセスの公平性に関する制度等をめぐって合意が形成できず、検討期間を最大1年間延長するとの決定が行われた。WHAが始まる前から、国際保健規則の改正は成立するだろうが、パンデミック条約については見通しが難しいと言われており、WHAが終了してのこの結論は、予測通り、ということができよう。
国際保健規則の改定ポイント:「パンデミック緊急事態」の導入など
国際保健規則改定の主要なポイントとしてWHOが挙げているのは、「パンデミック緊急事態」(Pandemic Emergency)という概念の導入、「連帯」(solidarity)と公平性(equity)に関する誓約(commitment)がなされたこと、条約の効果的な実施を導くために「締約国委員会」(States Parties Committee)が設置されたこと、国内および国家間における条約の実施の調整の在り方を改善するために、各国が国内法と整合性をとりつつ「国家IHR機関」(National IHR Authorities)を設置することになったことの4点である。
旧来の国際保健規則は「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」(PHEIC)を軸としていたが、改定規則では、このPHEICの中に、特に「パンデミック緊急事態」という概念を導入した。その定義は、感染性の病気(communicable disease)によって生じる緊急事態で、多数の国(multiple state)にまたがって地理的に広い範囲で拡大する危険性、各国の保健システムの対応能力を超える危険性、国際的な運輸・貿易を含む社会的・経済的な混乱を生じさせる可能性があり、政府全体・社会全体による取り組みをはじめとする、迅速で公平かつ強化された国際的な行動を必要とするもの、となっている(第1章 定義)。旧規則から、WHO事務局長は特定の保健緊急事態がPHEICを構成すると判断する(determine)権限を持っているが、新規則では、事務局長がPHEICについて判断する場合、これが「パンデミック緊急事態」かどうかについても事務局長が判断するという規定が付け加えられている(第12章4)。
第3章「原則」については、尊厳と人権、人間の基本的な自由を完全に尊重するという旧国際保健規則の規定は変更されていない(第3章1)。そのうえで、「公平性と連帯の促進」という表現が加えられた。これにより、保健緊急事態における国際的な協力と、医薬品アクセス等の公平性の確保について、より強化された対応が期待されることとなる。この「公平性と連帯の促進」に関連して、第13章(適切な保健製品への公平なアクセスを含む公衆衛生対応)において、加盟国に対する医薬品など保健製品への公平なアクセスの実現について、若干抽象的ではあるが、WHOがとるべき措置が記述されている。その中には、保健製品へのアクセスの状況の調査や、適切な保健製品を各国に分配する仕組みの設置、保健製品の研究開発や製造の地理的な分散化を促進するメカニズムの設置などが含まれている。
第4章「責任ある機関」(responsible authorities)に関しては、これまでの「国家IHR窓口」(focal point)に加え、「国家IHR機関」(National IHR Authority)を、各国の国内法や文脈に適合的な形で設置することとなった。これは保健緊急事態における各国のIHRに関連する対応を強化することにつながる。
第44章「協力、援助、資金」(collaboration, assistance and financing)では、各国がIHRの実施のための国内資金、および国際協力を促進するための資金の維持・増額をすることとなっている。特に、途上国がIHRを実施する能力を強化するための協力を、可能な形で実施することとなっている。
また、旧国際保健規則では、「緊急委員会」(Emergency Committee)や「再検討委員会」(Review Committee)の設置がうたわれているが、新規則では、これに加えて、「IHR実施のための締約国委員会」(State Parties Committee for the Implementation of IHR)の設置が加えられている。
これらを見ると、国際保健規則の改定については、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)パンデミックへの対応の教訓を踏まえて、途上国のIHRの実施能力の強化や必要な資金の確保や世界レベルでの公平な医薬品アクセスの確保等に関して、必要な事項を最低限導入したものであるということが理解できる。尊厳や人権、基本的自由の最大限の尊重や、国家主権の尊重といった基本的な原則については、「連帯と公平性」を付け加えて、世界全体でより普遍的な対応を行うことを明確にしたこと以外には、改定はなされていない。
パンデミック条約については交渉期間を最大一年延長
一方、パンデミック条約については、WHAの開始二日目の段階で、今回のWHAで合意に達することは難しいとの結論が明確となった。そこで多国間協議で検討されたのは、(1)パンデミック条約の検討期間をどの程度延長するか、(2)多国間協議の枠組みとなってきた多国間交渉主体(INB)のあり方を変えたり、その進行役である「ビューロー」を担っている国(現在は南ア(アフリカ地域)とオランダ(欧州地域)が議長、日本(西太平洋地域)、エジプト(東地中海地域)、タイ(南東アジア地域)、ブラジル(米州地域)が副議長)を選出しなおすか、ということであった。専門インターネットメディア「ジュネーブ・ヘルス・ファイルズ」によると、先進国は1~2年といった大幅な期間延長やビューローの選出しなおし等を主張、これに対して、途上国は、2024年内に特別セッションを開いて採択するなど、年内での決着を求めた。結局、交渉期間を最大1年延長して、来年のWHAまでに決着を目指すとの決議が採択された。
事実を踏まえない反対論:日本でも主要メディアがファクトチェック
パンデミック条約の現行の草案においても、尊厳や人権、人間の基本的自由の最大限の尊重や、国家主権の尊重は明確にうたわれている(第3条「原則」)。また、パンデミック条約は、基本的に、保健緊急事態への直接的な対応について決定する「国際保健規則」を補完する形で、世界全体でのパンデミックの予防や備えについて、多国間での取り組みのあり方を定めるものであり、パンデミックにおける主権国家を超えるWHOの権限強化といった条項が含まれる余地は、そもそもないと言える。今回のWHAに前後して、国際的に、また、日本でも、陰謀論に基づく反対論がインターネット上で大きく展開され、ジュネーブをはじめ、各国でデモなども実施されたが、これらは少なくとも、国際保健規則の改定やパンデミック条約の策定の実際の内容を踏まえて行われたものではない。日本ではこれまで、一貫してパンデミック条約や国際保健規則に関する報道は低調であったが、WHAに前後して、ようやく主流メディアでもパンデミック条約等の交渉の事実関係に関する報道が多く行われた。また、一部の報道機関は、これらの交渉に関連して展開された偽情報の問題についても触れ、また、ファクトチェックなども行われた。パンデミック条約交渉は今後も継続するが、日本においても、メディアによる正確かつ積極的な報道が望まれる。