Sudan, still with conflicts; a case of South Kordofan
『アフリカNOW』 No.96(2012年11月発行)特集記事
執筆:今井高樹
いまい たかき:会社員生活のかたわらJVCの活動にボランティアとして関わる。2004年に会社を退職、アメリカの公立小学校にインターンとして勤務したのち、2007年5月よりJVCスーダン現地代表。スーダン南部自治領(現、南スーダン)のジュバに3年にわたり駐在。2010年よりスーダン(北部)の南コルドファン州に移動、2011年6月の紛争勃発後は首都ハルツームに駐在する。
南北交渉にも影響するスーダン2州での紛争
日本でも少なからず報じられたスーダン共和国(以下、スーダン)と南スーダン共和国(以下、南スーダン)との武力衝突から5ヵ月、両国関係の行方を左右する交渉が正念場を迎えている。私が本稿を書いているまさに今この時(2012年9月23日)、エチオピアのアディスアベバにてスーダンのオマル・アル=バシール(Omar Hasan Ahmad al-Bashīr)大統領と南スーダンのサルバ・キール(Salva Kiir Mayardit)大統領との首脳会談が行われている。
スーダン南北間の緊張関係は、国境付近の領有権など二国間に横たわる諸問題だけでなく、スーダンが自国内で抱える紛争にも大きく影響されている。南スーダンが独立を控えた昨年6月、国境に隣接するスーダン領内の南コルドファン(South Kordfan)州で、南スーダンと同盟関係を持つ反政府勢力、スーダン人民解放運動/軍?北部(SPLM/A-N ; Sudan People’s Liberation Movement/Army-North)(1)とスーダン政府軍との間で激しい武力紛争が勃発した。そして9月には、同じく国境に隣接する青ナイル(Blue Nile)州にも紛争が拡大。これまで20万人の難民が発生し、国内避難民などの被災民は60万人を超えている(2)。
スーダンは「南スーダンがこれらの反政府軍を支援している」と非難し、「この支援をやめない限りは南スーダンとの安全保障上の合意もできない」と表明している。多くの識者や外交関係者が指摘するように、両州での紛争の解決を抜きにして南北スーダンの安定的な関係構築はありえず、南北問題の解決を求めた今年5月2日の国連安保理決議(決議2046)も、同時に南コルドファンと青ナイル両州での停戦に言及している。
私たち日本国際ボランティアセンター(JVC)は、2006年に南部スーダン自治領(現、南スーダン)で難民帰還支援の活動を開始。2010年には活動地をスーダン領内の南コルドファン州に移動して、地域開発と平和構築(住民間の信頼醸成)の活動を行ってきた。昨年の紛争勃発により一時、職員は退避したが、その後、事務所を再開し、現在は同州で紛争被災民への支援活動を行っている。ただし、紛争後はスーダン政府が外国人NGO職員の州内への入域を制限しているため、私自身は首都ハルツーム(Khartoum)に駐在し、現地でのスーダン人職員による活動を統括している。
本稿では、スーダン・南スーダンをめぐる問題に深く関連しながらも、日本では紹介されることが少ない南コルドファン州の紛争の背景や現状について、私の体験も踏まえて述べてみたい。なお、青ナイル州の紛争に関してはその背景など共通する部分があるものの、私に十分な知識がないため、ここではもっぱら南コルドファン州に焦点を当てることにする。
南北内戦とヌバSPLM/Aの結成
歴史をひも解けば、植民地化される以前のスーダンにはさまざまな王国が成立し、また多数の民族諸勢力が並立していた。イギリス・エジプト連合(当時エジプトはイギリス植民地)によるスーダンの植民地化、そして1956年の独立とそれ以降の近代化は、ハルツームを中心とする勢力(イスラムを信奉しアラビア語を話す勢力)が周辺の諸勢力を支配・統合していく過程でもあった。周辺の諸勢力の中には、ダルフール(Darfur)のように住民多数がイスラム教を受け入れたが母語としてのアラビア語は受け入れていないグループもあれば、イギリスの植民地政策によってイスラム教ではなくキリスト教の布教が進んだ南スーダンの諸民族グループもある。しかし共通して、これらの周辺勢力は国家の中で常に劣位に置かれ、程度の差こそあれ自然資源や農地は収奪を受け、人々は古くは奴隷狩りの対象、近代においてはハルツームなどの諸都市や農場において底辺労働力として組み込まれてきた。
南コルドファン州の中央にはヌバ(Nuba)山地と呼ばれる丘陵地帯があり、そこに住む農耕と採集、小規模家畜経営を生業として生活する人々もヌバと呼ばれている。ムスリムとクリスチャンが混在するが伝統信仰も根強く、アラビア語ではなく固有の言語を話すヌバの人たちも、同じく周辺勢力として差別を受け、ヌバ山地は開発から取り残されてきた。その一方で、土壌が肥沃で天水農業(3)が可能なこの地域は、1970年代から機械化農業の適地として注目され、土地の収奪が行われるようになる。
こうした背景のもと、1980年代に南部スーダンで反政府武装勢力としてスーダン人民解放運動/軍(SPLM/A; Sudan People’s Liberation Movement/Army)(4)が活動を始めると、ヌバの権利を主張し中央の権力に反抗するグループがこれに呼応して武装勢力を結成(ヌバSPLM/A(5)、南部のSPLM/Aと同盟関係を結んだ。これによってスーダン南北内戦は、南部スーダンのみならず北部スーダンの一部である南コルドファン州、さらに青ナイル州をも巻き込んだ内戦となった。そのスローガンは「南部独立」ではなく「新しいスーダン(New Sudan)」、新しい民主的・公平なスーダンをつくることである。戦闘の一翼を担ったヌバSPLM/Aのリーダーはムスリムであり、その点からも宗教がこの内戦の対立軸ではないことが分かる。
内戦終結と暫定統治期間
2005年1月に包括和平合意(CPA; Comprehensive Peace Agreement)が成立して南北内戦が終結、6年間の暫定統治期間が始まった。和平合意に基づき、この間に南コルドファン州ではスーダン政府与党の国民会議党(NCP; National Congress Party)とヌバSPLM/Aとの共同統治が実施されることになった。州知事は2年交代で両者が分け合い、州大臣や州議会ポストも一定の比率で両者に配分された。そしてこの6年間、州内には相対的な平和が訪れ、避難民の帰還、住民の生活再建、社会インフラ整備などが進められていった。
しかし大きな問題は、暫定統治期間の終了後に南コルドファン州の統治をどうするのかがまったく決められていないことだった。
2011年の暫定期間の終了とは、南部自治領にとっては住民投票による独立の意思決定を意味していたが、南コルドファン州はそもそもスーダン領であり独立という選択肢はない。ヌバSPLM/A自身の闘争目的も決して「分離・独立」ではなく、あくまでスーダン国内でハルツーム中心の強権的な国家構造を変え、各地方からの公平な政治参加や地域の独自性 を実現し、開発を促進するといったものであった。そもそも、SPLM/Aのスローガン「新しいスーダン」が象徴するように、南部で結成されたSPLM/A(あくまでも”Sudan People’s Liberation Movement”であって”South Sudan”ではない)の目的は南スーダン独立ではなく、基本的には「地方差別ない公平・公正・民主的な新しいスーダンの建設」であった。だからこそ、南コルドファン州や青ナイル州の人々も含めた共感をかち取り共闘することができたのである。
南部SPLM/Aの変質
しかし、内戦終結後の6年間で、そのスローガンは大きく変質した。私は2007年から2010年にかけてJVC駐在代表として約3年間、南部自治領の中心都市で現在の南スーダンの首都であるジュバ(Juba)で生活したが、その間に南部自治政府をはじめ人々の雰囲気の変化をまざまざと感じとってきた。内戦終結までSPLM/Aを率い、2005年に事故死したジョン・ガラン(John Garang de Mabior)は「新しいスーダン」とともに「統一を魅力的に(Make Unity Attractive)」というスローガンを掲げ、6年間の暫定統治期間にスーダン南北が手を携えて内戦で破壊された社会の復興に努め、南北統一の維持を魅力的な選択にする、という道筋を示していた。しかし彼の死後、これらのスローガンが口にされることは次第に少なくなり、2008年から2009年にかけて独立を示唆または支持する政府高官の発言や町中のステッカーが増えていった。
何もこれはジョン・ガランの死去やSPLM/A幹部の変節だけが理由ではないであろう。和平合意後、スーダン政府は南部の復興再建には一貫して非協力的であり、合意内容のうち多くの重要な部分でその履行をボイコットした(もちろん南部自治政府が和平合意を忠実に守ったわけではなく「お互い様」ではあるが)。スーダン政府のこうした「嫌がらせ」が、SPLM/Aを独立の方向へと追いやったのも事実である。
こうして、いつしか「統一を魅力的に」のスローガンは完全に忘れられ、「統一」を口にすれば非国民という雰囲気が醸成され、その結果が98%の高率で独立が可決された独立住民投票であった。
はしごを外された ヌバSPLM/Aと紛争の勃発
南コルドファン州に話を戻せば、つまり「新しいスーダン」を求めて一緒に戦ったはずの南部SPLM/Aがスローガンを捨てて「南部独立」に走ったことは、ヌバSPLM/Aにとってはしごを外されたようなものだった。南部独立後に南コルドファン州がどうなるか、和平合意には何も書いていないのである。
とはいえ彼らには、自分たちの意思を政治に反映させる大きなチャンスが2回あった。ひとつは和平合意に盛り込まれた「ポピュラー・コンサルテーション」であり、もうひとつは暫定統治期間内に実施されることになっていた州知事、州議会選挙である。「ポピュラー・コンサルテーション」についての詳細は省くが、大まかに言うなら州知事と議会が公聴会によって住民の声を吸い上げ、中央政府の意思決定に反映させるプロセスである。しかし、結局これが実施されることはなかった。
州知事・議会選は度重なる延期の末、2011年5月に実施された。州知事選は政権与党NCPとヌバSPLM/Aの候補者の一騎打ちとなり接戦が繰り広げられた。発表された結果は僅差で与党候補者の勝利となったが、ヌバSPLM/A陣営は不正があったとして結果の受け入れを拒否し、両者の対立は激化。当時、私は州都カドグリ(Kadugli)に滞在していたが、市内の兵士や軍用車両の数が増す中、ハルツームに退避し様子を見てはカドグリに戻る生活を送っていた。
この頃、既に南スーダン分離独立までわずか1ヵ月強となっており、スーダン政府は5月末に「SPLM/Aは南スーダンの勢力である。南コルドファン州内のSPLM/A(ヌバSPLM/Aのこと)は即刻、武装解除するか、南スーダンに撤収せよ」と命じた。南スーダン分離後に彼らがスーダン内に取り残されることを見越して、最後通牒を突き付けたのである。ヌバSPLM/Aはこれに対して、「自分たちは南コルドファンの人間であり、南スーダンに帰る家などない」と猛反発した。
対立がエスカレートする中、政府軍は戦車部隊をカドグリ周辺に派遣。ついに6月初旬に州都カドグリで市街戦が始まった。
紛争の拡大と難民、避難民の増大
市街戦では、住宅地を含め各所で銃撃戦や砲撃戦が行われるとともに、兵士による家屋の探索や民間人の拘束が広範に行われた。商店、一般家屋、国連機関やNGO事務所の多くが破壊・略奪の被害を受け、JVC事務所も一切を略奪された。駐在していた私は国連の退避用コンボイで市内から逃れ、国連機で首都ハルツームへと退避した。カドグリ空港までの道すがら、持てるだけの家財道具を抱えて安全な場所を求める避難民の列が何キロも続いていた。
戦闘はまたたく間にヌバ山地全域に拡大、州内は政府軍掌握地域とSPLM/A-N(6)掌握地域とに二分された。SPLM/A-N掌握地域に対しては政府軍の執拗な空爆が行われ、多くの村が焼かれた。村人は山中を何日も逃げまどい、政府掌握地域へと逃れて国内避難民となるか、または南スーダン側に国境を超えて難民となった。
住み慣れた村に残った人々も多かったが、戦闘開始が播種期である雨季の始まりにあたったため、農業は大きな打撃を受けた。南コルドファン州全体での昨年の収穫は平均の半分以下だったとする調査もある。たとえ一定量の収穫があったにせよ、その食料も今年に入って底を突いたらしく、2012年4月から7月までの間、主に食料不足を理由に多くの住民が村を離れた。
南スーダンのユニティ(Unity)州に位置するイーダ(Yida)難民キャンプでは、4月から6月まで大量の流入により難民数が倍増し、現在は6万人を数えている。一方でカドグリなど政府掌握地域に身を寄せる避難民は10万人に達するかも知れない。それでもSPLM/A-N掌握地域には今なお20-30万人が残るとされ、これらすべて合わせて被災民の数は約60万人にものぼる(紛争前のこの地域の人口は約100万人)(7)。
人道支援アクセスも暗礁に
こうして人々の生活に深刻な影響をもたらしながらも、現在に至るまで戦闘そのものが収まる兆候はない。昨年11月にSPLM/A-Nがダルフール反政府勢力と同盟を結んだことで、政府との交渉の余地はより少なくなった。今年5月の国連安保理決議は、主要にはスーダン南北間の停戦と交渉による問題解決を求めたものだが、それと同時に、南コルドファン州と青ナイル州での紛争についても、当事者であるスーダン政府とSPLM/A-Nに対して停戦と和平に向けた交渉、そしてSPLM/A-N掌握地域での人道支援活動の受け入れを求めている。
同地域は外部との物流が途絶され、先に述べた食料不足により人々は木の根や野草を食べて飢えをしのいでいるといわれる。SPLM/A-N側は早くより国連やNGOによる人道支援を求めていたが、スーダン政府は「援助物資がSPLM/A-Nに流れる」ことを理由にこの地域への人道支援のアクセスをかたくなに拒否し続けていた。
安保理決議後、国際社会の圧力の中で8月上旬にようやくスーダン政府がこの「人道支援アクセス」に合意。しかし具体的な実施手順などでスーダン政府とSPLM/A-Nとの主張が折り合わず、いまだに国連による現地調査すら実現されていない。
南北交渉の仲介と同時にスーダン政府とSPLM/A-Nとの仲介役でもあるアフリカ連合(8)は、この「人道支援アクセス」での話し合いを契機に両者の政治交渉を実現しようと努力している。そのためのカギとなるのは、昨年7月に両者が一度はサインしながらもスーダンのバシール大統領が受け入れを拒否した「枠組み合意」に立ち戻ることができるかどうかである。「枠組み合意」とは、スーダン政府がSPLM/A-Nを合法政党として認めると同時に、SPLM/A-Nは武装解除した上で政治交渉を進めるというもので、唯一の現実的な選択肢と考えられる。しかし合意が破棄されてから1年以上の戦闘を経て両者の不信感は増幅しており、再度そこに立ち戻ることも容易ではない。
紛争により引き裂かれる人々
ここまで、紛争に至る経緯やその後の政治状況を述べてきたが、その地に生きる人々に対して今回の紛争はどんな影響を与えているのだろうか。
もちろん、戦闘による直接の被害や難民・避難民となった人々が受けている苦しみは計りようもないが、もうひとつの大きな影響は、人々がふたつに引き裂かれてしまったことである。
JVCはヌバ山地の村で地域開発と平和構築(信頼醸成)の活動を実施していたが、この村では内戦時よりふたつの政治グループが形成されていた。すなわちスーダン政府に近いグループとヌバSPLM/Aのグループである。耳にした話では、内戦が始まる前後の1980年代に政府が「村長」を任命し、その人物を中心に影響力を拡大していった経緯があるらしい。
内戦終結後もこの二つのグループの間では小さな衝突があったのだが、私たちが活動を始めた2010年には村は平穏を保っていた。そこでは、双方を代表する2名の村長(一種のパワー・シェアリング)を中心にリーダーたちの合議によって村が運営され、村内のさまざまな問題解決にあたっては慣習法に基づく調停・裁判システムが生きていた。両者のしこりが完全に解消されたわけではないにせよ、それなりに「うまくやっている」のが見て取れた。
しかし、2011年5月の知事選前後にその雰囲気は一転した。6月初旬の軍事衝突に向け緊張が高まる中、自分たちが少数派だと認識している政府系の村長とその周辺のリーダーたちはこっそりと村を抜け出し州都カドグリに逃亡した。彼らに近い他の住民も後を追った。そして紛争勃発後、村はSPLM/A-Nの拠点とみなされ政府軍の空爆を受け、多くの住民は南スーダン側へと逃れた。村人は完全に二分されることになった。
政府掌握地域のカドグリに避難してきた人々(ほとんどはSPLM/A-N掌握地域からである)にとって、村に家族が残っていたり、あるいは親戚の誰かが南スーダンに逃れていたとしても、それを公の場で話すことはご法度である。SPLM/A-N掌握地域は「閉鎖地域」と呼ばれ、そこ残った住民や南スーダンに逃れた住民はSPLM/A-Nメンバーすなわち国家に反逆した罪人とみなされるからである。街ではSPLM/A-Nへの敵意を煽るキャンペーンが続く。ついさっきまで家族、隣人として生活を共にしていた人々との間に、今では深い溝ができつつある。
先日、ハルツームに住む南コルドファン避難民の知り合いと会う機会があった。昨年6月の戦闘でカドグリの自宅が略奪を受けて以降、不便な避難生活を続けている。私に次のように話してくれた。「以前は、政治のことなんか気にせずみなが一緒に生活していた。争いなど誰も好きでないのに、一部の人間のせいで戦争が起きる。そして戦争が起きると、突然みなが『あいつはSPLM/A-Nだ』『こいつもそうだ』と言い出す。そうして無実の人がたくさん殺されてしまった」。
南コルドファン、青ナイル両州の問題も含めた解決を
以上、南コルドファン州の紛争と現状について概観してきた。整理すると、南北内戦とはスーダンの周縁部において劣位に置かれた勢力が中央に反旗を翻し「新しいスーダン」に向けて変革を求める戦いだったはずだが、それが南部の分離・独立という形で終わったために、共闘していた南コルドファン州、青ナイル州の勢力が置き去りにされてしまった(9)。
そのことによって両州の紛争は再燃し、多くの犠牲者と難民・避難民を生み出しつつ、6年間の暫定統治期間にそれなりの安定と共存関係を取り戻しつつあった地域社会は再度分裂を余儀なくされた。
安保理で先日行われた非公開会合では、南北スーダンの交渉については5月2日の決議に基づく解決を求める強い意向が示されたものの、残念ながら南コルドファンと青ナイル両州への人道支援アクセスや政治交渉の難航については一部の国から懸念が示された程度だとする報道もある。
しかし、今回の動きを南北の和解だけで終わらせてしまっては、南北内戦を南部の分離・独立だけで終わらせてしまった和平合意プロセスの轍を踏むことになる。そして冒頭にも述べたとおり、南北スーダンの関係についても、国境に隣接する両州の紛争が解決しない限り真に安定化・正常化することはありえず、容易に武力衝突などが再発するだろうと指摘されている。
たとえ南北が石油収入等の主要問題で合意文書にサインしても(それ自体は画期的な前進だが)、引き続き、両州の問題も含めた包括的な解決を目指して国際社会が関心を持ち続けることが重要である。そのことを改めて訴えて、私の稿を終えたい。
なお、紙幅の都合により、JVCが現在行っている南コルドファン州内での紛争被災民(帰還民、避難民)支援活動についてはほとんどご紹介することができなかった。ご関心がある方は、JVCウェブサイトより以下の記事をお読みいただきたい。
http://www.ngo-jvc.net/jp/projects/sudan-diary/
(1)後に述べるSPLM/Aと区別する意味で、南スーダン分離独立後の北部(スーダン領)のSPLM/Aはこう称される。
(2)Monthly Humanitarian Bulletin – Issue 06,July 2012, OCHA
OCHA ROSA Humanitarian Bulletin Southern Africa Issue 06 : October 2012 | HumanitarianResponse
(3) スーダン北部は降水量が少なくナイル川沿いの灌漑農業が中心だが、南コルドファン州から南では年間降水量が500ミリを超え天水農業が可能になる。
(4) 南スーダン独立後の現在は、それぞれ南スーダン政府与党、南スーダン政府軍である。
(5) 南部のSPLM/Aからの独自性を保ちながらも同じSPLM/Aとして活動した。ここでは南部のSPLM/Aと区別するためヌバSPLM/Aと記述する。
(6) 本稿で「ヌバSPLM/A」と称してきた勢力だが、冒頭でも説明した通り南スーダン分離以降はSPLA/M-Nとする。
(7) Monthly Humanitarian Bulletin – Issue 06,July 2012
(8) アフリカ連合の決議に基づき、元南アフリカ大統領ターボ・ムベキ(Thabo Mvuyelwa Mbeki)を代表とするAU High-Level Implementation Panel (AUHIP)が仲介を担っている。
(9) ダルフールの反政府勢力も南北内戦がスーダン全体の変革につながると期待していたが、結局それは裏切られた。2002年には南北和平交渉の議題にダルフール問題が含まれないことが明らかになり、それが同年に始まるダルフール紛争の背景にもなっている。