アフリカの現場から:ケニア ダダーブ難民キャンプ

On the spot in Africa: KENYA, Dadaab refugee camp

『アフリカNOW』No.95(2012年7月31日発行)掲載

執筆:前田実咲/MAEDA Misa
まえだ みさ:慶應大学経済学部3年。研究テーマは第三世界フェミニズム。NGOアデオジャパン所属。関心分野はセクシュアリティ、保健医療、教育など。大学入学後に台湾のHIV孤児院(HIV陽性児が半数以上いる児童養護施設)での滞在や東南アジア周遊旅行などを体験する。2011年8?12月にケニアのダダーブ難民キャンプなどでNGOインターンシップ。


ソマリア難民キャンプという言葉を聞くと、どのようなイメージが浮かんでくるのだろうか。世間一般では飢餓や貧困、海賊などのイメージだろうか。『アフリカNOW』の読者であれば、もう少し具体的なイメージを持たれるかもしれない。本稿では、ケニアのダダーブ(Dadaab)難民キャンプ(1)などにおける私の研修生活を紹介し、ソマリア難民キャンプのイメージにもう少し多様な色合いをつけることができたらと思う。

難民キャンプでの研修

私は昨年の4ヵ月間、ケニア国境を越えてきたソマリア難民などを受け入れているダダーブ難民キャンプなどで、ケニアNGOのADEO(African Development & Emergency Organization)のもとで研修を体験した。ダダーブ難民キャンプは2012年7月現在で45万人の難民を抱える(2)世界最大の難民キャンプである。私が滞在した2011年は、「アフリカの角」の飢饉によりソマリアなどからの難民が10月までに1年間で19万人以上も流入し(3)、現場は緊急事態に直面していた。同時に、各国政府の関係者や援助関係者、ジャーナリストなどが連日、数多く訪れていた。こうして世界の注目の渦中にあったダダーブ難民キャンプに、当時19歳の大学2年生であった私は単身で飛び込んでいった。

世界最大の難民キャンプでの数ヵ月の研修をどうして希望したのか。よく聞かれることだが、「国際支援の最前線を見てみたかった」ということが主な理由である。高校生のときから国際協力に関心があり、大学生になるとぼんやりしていた国際協力というキーワードが少し具体的に見えてくるようになった。大学1年生の夏にアデオジャパン(ADEO Japan)というNGOに所属したことで、学生時代にケニアやウガンダでの数ヵ月単位での研修を体験した人の話を聞く機会が多くなり、私も実際にある程度の期間にわたって研修で現地を見てみたいとの思いが強くなった。そして、学業との兼ね合いをつけ、親の反対を乗り越え、最終的に4ヵ月間の研修が実現した。

ケニアでの研修期間中では、ダダーブ難民キャンプでの2ヵ月半の体験がもっとも強く印象に残っている。それは、実際に見た難民キャンプが、世間一般で「難民」と聞くと連想するイメージとはかなり異なるものであったからだ。1991年に設立されて以来、ダダーブ難民キャンプは難民を受け入れ続け、そこで生まれ育った子どもたちも多い。キャンプの中心には市場があり、レストラン、ホテル、インターネットカフェ、映画館、電気屋が並び、タクシーやバイクが走っている。連日、大量の難民が流入し緊急事態に直面している難民キャンプである一方で、難民だけでも45万人以上が住むケニア第3の都市でもあった。市場で商売に成功したお金持ちの難民、着の身着のままでケニア国境を越えてきた難民、キャンプ内の宗教リーダーや地域リーダーなど権威のある難民、親族を頼ってなんとかキャンプにたどり着いた難民。一口に「難民」と言っても、その中には経済的・政治的に多種多様な人たちがいる。そのことは個人的に難民の知人ができるとなおさら強く感じた。

栄養調査に参加して

毎年行われる栄養調査に参加した際の話を紹介したい。私が参加した2011年は難民が急増したため、例年より大規模な調査が行われた。私は5日間のトレーニングを受け、7日間の調査に参加した。リーダーと通訳、測定係2人の計4人で調査チームを組み、そのチームに私は監督役として同行した。調査員は難民から雇用するため、難民が難民の調査をすることになる。調査では難民の家庭を一軒一軒回り、子どもや女性の栄養状況、各家庭の家族構成、死亡率、衛生状況、食料管理状況などを調べる。乾ききった土地を朝7時から夕方まで1日に10軒を回るので、みんな疲れ切っていた。

このとき、私が同行した中の一つのチームで不正があった。チームリーダーが家族構成、身長、体重などのみを測定し、他の質問事項はすべて適当に記入したのだ。身長を測定器ではなく目視のみで測っている場合もあり、小数点7や3などのそれらしい半端な数値を記入していた。私は不正を指摘し、説得を試みたが、「俺は疲れているんだ! こんなに長くて重労働の調査を最後までていねいにできるわけがないだろう」と突き放されてしまった。その結果、その日の調査チームのデータはすべて無効になってしまった。彼は、高学歴で高収入のエリートの難民であり、そうしたプライドもあったのだろう。その後の調査では、彼のチームには監督役として栄養士などが直接に付いてチェックして回ったため、最終日まで無事に調査が続けられた。

その一方で、毎日朝から夕方まで昼食も食べず調査を共に行い、移動中にはお互いの家族の話をするなど、調査員とは日に日に仲良くなっていく。調査対象の家庭との関係も良好で、調査に慣れてチームに余裕が生じてくると、ヘモグロビンの測定で健康的な数値が出ると「君、健康!」「はい、君も健康!」などと言って家庭を楽しませるチームリーダーもいた。調査した家庭が歓迎してくれ、チャイやスイカジュースを出してくれたときもあった。大家族が多く、10人くらいの子どもたちが口々に”How are you?  How are you?”と言って周りを飛び跳ねていた家庭もあった。調査の最終日に、行動を共にしていた調査チームの一員の家に招かれ、昼食をいただいた。ソマリ人は皆で中央の一つのお皿から手を使って食事をとる。チャイ、パン、野菜の煮物、スイカジュースをごちそうになり、和気あいあいとした時間を過ごした。こうして個人的な人間関係を持つことで、「難民」という言葉で一括りにするのではなく、彼らの人間性を知り、ソマリア難民をより近い存在に感じることができた。

難民という存在

実際に難民キャンプで数ヵ月を過ごしたことで私は、人々が「難民」とされることの不条理を感じた。国家から見放され、どの国にも属さなくなった人々を「難民」として囲い込み、難民キャンプで保護し、食料や水、住居、医療、教育を無償で提供する。本来「保護」の対象とされる彼らは、正式には労働を許可されていない。難民キャンプ内の学校を卒業しても職に就くことは少なく、多くの人が日中からこの地域で常用される依存性のある嗜好品のチャットを常用している。これまで20年間以上存在してきたダダーブ難民キャンプは、今後も10年以上は存続すると言われている。ソマリアの情勢が安定せず、ケニアに定住化することもかなわず、第三国定住の可能性も45万人の難民の数に対してとても小さい。毎日を生きるための最低限の物資やサービスは支給されるが、今後、状況が変わる見込みはまったく立たない。そんな難民キャンプには鬱屈感が滞っているように、私の目には映った。もちろん、将来ソマリアの再建や家族の安定した生活のために一生懸命に学び働く難民もいるし、援助団体も難民の急増という緊急事態に対して懸命に対処し、最大限の努力をしている。しかし、現状では、難民にとっても援助団体にとってもまったく先が見えないのだ。

その一方で、今後ダダーブ難民キャンプをどのようにしていくのかという方針の揺れは、さまざまな局面で如実に見受けられる。その一例として、キャンプ内の学校教育があげられる。今後、難民がソマリアに帰還するかどうか定かでないため、キャンプ内ではケニアの義務教育が行なわれており、キャンプ内で生まれ育った子どもたちの多くはソマリアの独立記念日を知らない。キャンプ内に常に漂う鬱屈感の中、先が見えない支援が今後も長く続いていくことが予想される。

研修を振り返って

ケニアでの研修のすべてを振り返って良かったと感じる点は、自分の目で見て主体性を持って話せることと、またアフリカに戻る個人的な理由ができたことだ。私が尊敬する木全ミツさんは次のように述べている。「世の中を変えたいと思うなら、現実の社会を知り、良い悪いは別にして、その現実をある程度認めながら、体験を通じて一人称で語れるようにならなくてはならない」(4)。ケニアでの4ヵ月間を通じて、自分の目で見た光景やお世話になった人や地域に主体性を持って関わり続けていたいと感じるようになった。世界の不条理や歪みに閉口することがあっても、個人的な理由が存在する限り、すっかり魅了されたアフリカにまた戻りたいと、私は思い続けることだろう。


(1) ケニア北東州の街ダダーブ近郊にあるダガレイ(Dagahaley)、ハガデラ(Hagadera)、イフォ(Ifo)の3つの難民キャンプを総称してダダーブ難民キャンプと呼ぶ。

(2) ”Refugees in the Horn of Africa: Somali Displacement Crisis” http://data.unhcr.org/horn-of-africa/country.php?id=110
(3) ”Life-saving work continues in Kenya’s Dadaab camps” http://www.unhcr.org/4ea14d6d2.html
(4) http://www.nadeshiko-voice.com/interview/mitu-kimata/