深尾 幸市さんに聞く:「交流」の現場:1980-83年のナイジェリア北部  解説・聞き手: 玉井 隆

『アフリカNOW』119号(2022年3月31日発行)掲載

深尾 幸市(ふかお こういち):1939年、岐阜県生まれ。AJF理事。大阪大学大学院博士後期課程単位取得退学。1963年、大日本紡績株式会社(現ユニチカ)入社。国内勤務を経てナイジェリア、ドイツに駐在。大阪城南女子短期大学事務局長などを歴任。現在、桃山学院教育大学客員教授、NGOセスコ副理事長、ERP教育研究所顧問など。著書に『知の散歩道』(私家版、2014)、『私のアフリカ、私の旅』(竹林間、2018)がある。

玉井 隆(たまい たかし):1986年生まれ。AJF共同代表。2015年東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得満期退学。同年博士号(学術)取得。在ナイジェリア日本大使館・専門調査員などを経て、現在、東洋学園大学・専任講師。著書に『治療を渡り歩く人々:ナイジェリアの水上スラムにおける治療ネットワークの民族誌』(風響社、2020)など。


はじめに

(1) 本稿の目的

 本稿はアフリカ日本協議会の理事である深尾幸市氏が、2021年4月に上梓した『人と地球をたずねて』を紹介する予定だった。深尾氏の「自伝」は『知の散歩道』『私のアフリカ、私の旅』に続く3作目であるが、「本当に一人の人生史を書いているのか」と思えるほど、長きにわたる企業、研究、教育、NGO などでのさまざまな経験、また各所で発表した論考や書評が掲載されている。

 本書を読む中で私が最も気になったのは、ナイジェリアでの生活であった。深尾氏は1980~1983年の3年間、日本の紡績企業のユニチカ株式会社からの出向で、ナイジェリア北部の都市カドゥナ(Kaduna)でアフリカンプリントの製造を手掛けるアレワ紡績(Arewa Textiles Ltd.)の副社長を勤めた。現在のカドゥナは誘拐が多発し、外務省の海外安全ページではレベル3(渡航中止勧告)とされるが、当時のカドゥナには多くの日本人が駐在していた。彼らはまた独立後のナイジェリアの初期工業化を担う存在であった。

 深尾氏の豊かな人生史を記した本書を私が雑多に紹介するよりも、ナイジェリアでの経験に特化し、本書に基づきつつ深尾氏にインタビューを行い、それを紹介することで、本書の魅力の一端を描けるのではないか。このように考え、私は大阪にある深尾氏の自宅を訪ね、当時のナイジェリアでの仕事や生活についてインタビューを行った。本稿はそれをまとめたものである。

(2)アレワ紡績とは

 1960年代、日本はナイジェリアに対して大幅な輸出超過であった。これを是正するためにナイジェリアと日本両政府が協議した結果、日本の経済協力として、日本の十大紡(日本紡績協会に加盟する大手紡績10社)の共同出資と技術供与により、日本とナイジェリアとの綿紡績・加工の合弁工場が建設されることとなった。深尾氏が勤めていたユニチカ株式会社(1) はこの十大紡の一つである。アレワ紡績は1963年に設立され、1965年に日本とナイジェリア双方の出資により、1960年の独立前後から繊維業が盛んであった、綿花栽培地に近いカドゥナに工場が建設された(2)。西アフリカ最大級のアフリカンプリントを扱う紡績企業の一つで、ナイジェリアで生産された綿花を使用し、紡績、織布、染色、加工、仕上げをすべて行っていた。

(3)1980年代のナイジェリア

 深尾氏は1939年に岐阜県で生まれた。戦時下で6年程過ごした後は大阪に移り、中学、高校、関西学院大学経済学部を経て、大日本紡績(現ユニチカ)に入社した。経理部、原綿課、東京秘書課、国際本部等を歴任後、1980年にナイジェリアのアレワ紡績に赴任した。アレワ紡績のカドゥナ工場建設から15年後のことである。

 ナイジェリアはアフリカ最大の石油産出国である。ナイジェリアの財政は、1970年代末までは高騰した石油価格により潤っていたが、1980年以降、石油価格が急落していったのを契機に、対外債務が激増し、債務危機に近い状況を呈した。この結果、1980年代は世界銀行とIMF の勧告に事実上従った「構造調整プログラム」(SAP: Structural Adjustment Program)が進められた。つまり深尾氏が赴任していた頃のナイジェリアは、外貨準備高は激減し、政局も不安定化しつつある時期であった。なお深尾氏が離任して以降の1988年、アレワ紡績の株式はナイジェリア政府に譲渡されている(3)。1990年代以降、アフリカンプリントや繊維製品をめぐっては、ナイジェリア北部の治安悪化に加え、インドやタイ、中国製品が大量に流入したことで、ナイジェリア北部の繊維産業は衰退した(4) 。現在のブハリ(Buhari)政権はその回復を目論んでいるが、その道のりは極めて険しいといわれる。

 上述したナイジェリアの繊維産業をめぐる大きな時代の流れは、少し調べればなんとなくわかる。しかし以下のインタビューは、ナイジェリア・日本の「交流」や、もはや過去のものと感じられる繊維業が盛んな1980年代のナイジェリアの「現場」の一端を想像させてくれる。インタビューの内容はおよそ40年前のことであり、深尾氏は「間違いがあるかも」と述べたが、その語りは鮮明で、また写真や当時の資料を見せていただきながらのインタビューとなった。以下では、まずナイジェリアでの私生活について、その後アレワ紡績での仕事について書いている。(玉井)

1.日常生活

ー 1980年代のカドゥナでの駐在生活をうかがった。まずナイジェリアで暮らす日本人について聞いた。

深尾 アレワ紡績の工場から1km ほどのところの社宅に住んでいました。二戸一というか、二家族が一つの建物に住んでいました。時代によって人数は変わりますけれども、だいたい日本人が24〜25人いて、そのうち10人ぐらいがユニチカから来ていた。ラゴス(Lagos)(5) には日本人が結構多く住んでいたかと思います。ニチメン、JETRO(日本貿易振興機構)、大使館、三菱自動車など。短期だったら、千代田化工からも何十人という人が、年2回ぐらいは入れ替わっていました。

 社宅には、子どもさんが幼稚園ぐらいまでで家族で来られている方、成人してご夫婦で来られている方がいました。私の場合は単身赴任でした。子どもが2人とも学生で、日本人学校もないので、連れていくわけにはいかなかったと。基本的に、私自身はそういう体験をさせたいという思いがないわけではなかったけど、いろんな事情があって。

【食事について】ブラジルからの輸入肉、現地の鶏肉が大切でしたが、「新鮮なラーメン」が欲しかったね。土曜日はビールを飲んで、カップヌードルをお昼に食べるっていうのは楽しみでした。船で送ったものは全部ダメで、カップヌードルのオイルが回るから下痢をするんです。だから「新鮮なラーメン」っていつも言っていて、出張者が持って来てくれるのを待った。あとは停電が大変でした。最長で1 週間の停電を経験しました。”No NEPA” (6) です。社宅の自家発電機を持ち回り稼働させますが、冷凍庫はダメになり、買いだめていた食料の消化パーティーをしていましたね。

【移動について】チャド湖にも行きました。今はボコハラムの影響でまったく行けないですけれど、1980年は民政化していて、安定している時期だったんです。そういう意味ではリスクが低かった時代の安定した生活だったと思います。当時のナイジェリアは19州ありましたけど、もう全部私は回って。ソコト(Sokoto)のフィッシングフェスティバルは圧巻でした。ポートハーコート(PortHarcourt)でビアフラ戦争 (7) の跡地にある弾痕の壁も見ました。生々しかった。

 当時はまだ別に何かを調査をするとかじゃなくて、あくまで個人的な好奇心でした。だいたい向こうへ行って日本人が集まったら、カラオケ大会か麻雀でほぼ過ごす。安全の問題もあるから、外出を自粛するような生活がほとんどだったんです。どちらかというと、私はカラオケも麻雀も嫌いで。だから休みがあるたびに、クリスマスホリデーとかは、もう外へ出る。幸いにも役員は全員車をドライバー付きで与えられていましたので、ラッキー。自分の運転手を使ってしょっちゅう出かけていました。

 あとは週に1、2回、英会話の勉強に英国人パット ショウ(Pat Show)氏(海軍指揮官夫人、北アイルランドのベルファースト出身)の家へ行っていました。勉強よりもおやつが目当てで、3年間ずっと行きました。現在もクリスマスカードを交換しています。また、ナイジェリア離任後にドイツに駐在したときには、私の次男がイングランドのソールズベリの自宅に1週間滞在させてもらいました。

【健康管理について】ナイジェリアの場合マラリアの話題を避けて通れません。赴任者の6 割がかかると言われていました。マラリアを媒介する蚊は恐ろしい。予防薬ダラプリン(仏系)、キニーネ(英系)などを常用していました。他に風邪、風土病、下痢などいろいろな病気があり、街の病院では設備が貧弱であるし、医師との疎通ができない。アレワ紡績には、ナイジェリア駐在10年の医師が居られたので、すべてを委ねていました。 

2.お金を使わなければならない

深尾:もらった給料の半分は現地で使わざるをえない。外貨送金制限のため日本に送れなかったのです。給料はナイラ(現地通貨)でもらって、中央銀行から日本へ外貨送金をする。ただ、例えば私の月給が100万円とすれば、少なくとも半分は現地に残さないといけない。従って、人生の中で唯一、お金の使い道に困ったという経験です。買うものがないんです。まったくない。そこでスマグルグッズ(密輸品・盗品)です。ワインとかウイスキーなんかを買う。スーパーマーケットでは週1回、金曜日の午前中しかビールは買えない。しかも空瓶を持っていかないと買えない。私の前任者はお酒をあまり召し上がる方ではなかった。だから空瓶探しから始めたんです。闇市へ行ったらそういうのはいくらでもありますけれど。ウイスキーとかワインはもう超一級品をそこで買っていました。でも、後から思えばもしかするとかなり古いものとかを買っていたかも。でもそれは当初はわかんないから、結構「シーバスリーガルがどうこう」とかやっていましたけど、だんだん怪しいなと思いましたが。買うものがないと言いましたが、ラゴスのホテルへ行ったら豪華本もあるので、それはもう高価なモノであっても何でも買っていました。

3.仕事での苦労

ー 深尾氏が赴任した頃、アレワ紡績では4,000人近い従業員が勤めていた。会長はナイジェリア人で、社長・副社長・取締役は日本人が務めた。管理職の中でも中心メンバーとなったのが、社長、副社長(深尾氏)、ゼネラルマネージャーでハウサ人のギダド(Alhaji Abu Gidado)氏の3人であった。深尾氏が「ギダドは優秀な男でした。カドゥナ州の財務大臣の経験があったと思います」「彼とは、もう毎朝彼の部屋へ行って。打ち合わせ、おしゃべり、いろいろした。彼の自宅に何度か招待されたこともある。当時は非常に交流を深めていました」と述べるほど、ギダド氏とはうまくやっていたようである。しかし管理職の立場である深尾氏は、さまざまな問題に直面した。

深尾 仕事上の問題はもう多発しました。当初はそうでもないでしょうけれど、ナイジェリアゼーション、要は日本人を順次減らしていって、全部自分たち(ナイジェリアの人たち)でやりますよというのが基本方針としてありました。20年後か30年後かは別として、私がいた頃はその渦中にありました。例えば私のポジションでも1980年代の半ばになくすということでした。

 従業員のうち、トップクラスにはイギリスなどへ留学した人たちが2、3人はいますけど、ワーカーはもう名前が書けたら採用するというくらいの感じです。北部地域の州ですから従業員はほとんどがハウサ人ですけれども、イボ人もヨルバ人も採用していました。

 問題はいろいろありますが、わかりやすい問題としては盗品、工場の中の部品がもうしょっちゅうなくなるという、それはもう日常茶飯のことですよね。それからナイジェリアンと日本からのスタッフとの間での問題もありました。上司が厳しいとか、あるいは技術ができないから。いじめではないけれども、それが耐えられなくて、というのが一つあったと思います。日本人にもいろんな方がいらっしゃいます。人間関係の話だからということはあるでしょう。それからこれは極端なケースだけれども、部品を持ち出したら当然叱責しますよね。それを逆恨みして、ということもありますし、ケースはほんとにさまざまだったと思います。

 一概には言えませんが意図的にナイジェリアンが仕掛ける場合もあります。ナイジェリア警察に対して、ナイジェリアンの方が「この日本人を日本に帰国させてくれ」と言うのです。われわれはそれを「ブラックメール」と呼びました。何人かの日本人がやり玉に挙がる。第三者で見れば、こちらに落ち度があるときも。しかし大半は、彼らが嫌な上司の日本人を追い返せというのがあって、手紙が行くんです。そういうとき彼らは警察と前もってコンタクトしていた。それと、やっぱり政変がいつ起こるかわからないので、日本人の治安、安全を守るためには、やはり現地の人たちの力を借りないとできないんで、日常的に私たちは「秘密警察」と呼びましたが、その幹部とコンタクトを取ってきたということです(8)。

【ナイジェリアンを見下すような日本の方はいたか?】ありえますね。それは日本人も、ナイジェリアの知識がまずないです。私を含めてですけど、最初は。それから、インターナショナルな感覚を持ってる人とない人。特に工場、現場にいた人たちは、日本では工場勤務でずっと外国も知らなくて仕事をしていたのが、いきなりナイジェリアに行ったという場合もありますから。それはやっぱり双方に課題があると思います。しかも、当時はそんな事前のトレーニングなんてのはほとんどありませんから。事実、工場現場の機械の運転、修理や管理をするだけですから、それほど高度なことが必要でもないですよね。日本でやっていたことをそのままやればいいという、そういう側面もあったと思います。

4.給料の未払い

深尾 給与の未払いが直接の原因で、大きな騒ぎがありました。この事件は今でも忘れられません。給料は2種類あったと記憶してるんですが、つまり上の方々は銀行振り込みだけど、大半のワーカーには現金で渡していました。で、ある日の朝、早朝に日本人勤務者がわが家に来て、「工場に入れない」「石を投げられる」と言ってきた。もう覚悟して、身に付けるものは何もなしに裏口から工場に入って、そうすると、1日3交代でやってますから、ちょうど朝8時前後にあがってきた数百人のワーカーたちが石を投げつけて、会社に対して怒ってるわけです、とりわけ日本人に対して。「何で給料払わんのや」と。財務担当の役員はもうトイレに隠れて出てこない。身の危険を感じたということです。ただ、人事担当役員は、この人物はとてもに勇敢で、優秀な男だったと私は思ってますが、彼と2人で夜勤から上がってくるワーカーたちに「お金を払うから、とにかく収まってくれ」という下手な英語でみんなに演説して。それでとりあえずジュラルミンのかばんを持って、カドゥナ中の銀行を回ったのです。それで、あるだけ現金を全部そこへ入れて持ち帰って、「全員に200ナイラ払え」と。「あとは精算せよ」ということで、それで静めたという経験があるのです。

 これがほぼ半日かかったと思います、それを収束するために。あの時はすごかったです。しかも間の悪いことに、その日は取締役会でした。とにかくこの件があったので中断していて、夕方に再開した。日本人は全員社長宅に避難させて。だから連絡はもう私だけが社長にするというかたち。それで夕方にかろうじて取締役会をして、あれやこれやして、多分夜遅かったと思いますが9時頃に社長宅へ行って、初めて食事をごちそうになったと。そこで長年親しいナイジェリアンのコックが、今でも顔を覚えてますけど、「ミスター深尾はブレイブだ」と、「勇敢だ」と。もう全部聞き知っているわけです。その一言は、私にとっては大変……うれしかった。それと、なぜかはわからないですけれども、社長宅へ行ったときに、胸の下に血のりが付いてましたから。それはまったく意識してない、わからないんです。小競り合いしたんだと思いますが。

 もともとの原因は、中央銀行からローカル銀行にお金が届いてなかったことです。だから、支払い総額を全部集めることができなくて。先延ばしになってしまっていた。経理もぼんやりしてたと思いますけど。でも、私のそのときの実感は、やっぱり経営者っていうか、会社はそういうことを起こしたらいけないと。反省しました。ナイジェリアの役員で財務担当がいますから、給料の支払いは彼の仕事なんだけれども、その辺がルーズだったということなんでしょうね。

5.お土産

深尾 私の役割の一つとして、ナイジェリア人と日本人駐在員の間を取り持つという仕事が結構多かった。秘密警察とか郵便局とか、また、外貨を送ってもらうのは簡単じゃないのね。だから、月1回はラゴスのナイジェリア中央銀行まで行って、1,000km強を車で行ったことも。副頭取のオチチさんというんだけど、その人の自宅に前夜行って、お土産(アレワ紡績で作られたアフリカンプリント)をお届けしておいて、翌日正式に中央銀行へ行って、それで、書類の中にあるアレワの書類を一番上に載せて。

 また、日本からの郵便物も簡単には届かない。だから、郵便局長と親しくなって、これまた時々お土産を持っていって。そうすると、優先的に郵便物を届けてくれるということがありました。郵便局長とのつながりについては、前任者から引き継いだので、最初のきっかけはちょっとわかりません。継続してますので。

ー 現在のナイジェリアが抱える問題は、1980年代においても当然あったことが確認できる。現在でも給料の未払いは役所や大企業でも頻発している。また当時は、インターネットが存在しない以上、郵便は日本との公私のやり取りにおいて重要である。他方、前任から引き継がれる警察や郵便局との「良好な関係」はそう簡単に形成できることではない。つまりアレワ紡績の場合、わかりやすく魅力的な「お土産」があること、アレワ紡績自体がナイジェリアと日本の合弁企業であり、ナイジェリア政府関係者も幹部にいたこと、また1980年代は経済状況が悪化しており、「お土産」のニーズがより高かったことなどが背景にある。逆にいえば、こうした人的ネットワークの中に、強力なつてもなく単身ビジネスのために乗り込んでも、そう簡単に物事は進まない。だからこそ今もナイジェリアでのビジネスが難しいという方は多いし、すごく苦労されたのだと思う。しかし、なぜそうした状況ができているのかを問うことは重要であろう。ナイジェリア側にとっても、当然「うまく」ビジネスをしなければならないのだ。このようにビジネスでは以下でも示すような「ナイジェリアン・ファクター」ともいわれる事態に対応する必要がある。

6.空港

深尾 日揮だったか、電力事業をやっていた会社が、何十人という労働者を定期的に、3ヵ月から半年の期間で入れていました。私がナイジェリアのカノ(Kano)(9) 国際空港から入国するとき、空港ではトランクを開けて中を全部チェックされて、それで白墨でトランクに何か書かれて、それで終了といって、外へ出てくる。すると、もう子どもたちも大人もいたのかな、わーっと集団でトランクを運びに来て、雑巾で先ほどの白墨を消してしまう。その結果、空港スタッフに「まだトランクのチェック受けてへんやんか」と言われて、またやり直しとか、そういう体験があった。これは事実だと思いますが、現地の石油会社に赴任した日本人の集団全部はもうパスポートに最初からお金を挟んでいた。その結果、そこで必要な金額が上がってしまう。それも後で思えば、当然実際のフロントにいるワーカーたちはそれが仕事の一つですから。そこから巻き上げないと、後ろにいる親分に怒られると、そういうことだったとも知りました。

7.調達

深尾 私は時々マーケットリサーチでナイジェリア北部の国境付近に行きました。密輸品が結構多いんです。カドゥナには大手繊維企業としてUNTL(United Nigeria Textile Plc)とKTL(Kaduna Textiles Limited)があって、基本的にはナイジェリアの原綿を使ってアフリカンプリントなどを作り、輸出することは原則禁止する。つまり国内での需要に応えることを優先していた。価格について詳細はもう今はあんまり記憶していませんが、密輸品との競合がありました。

 アレワ紡績では、原綿から最終まで(アフリカンプリントの完成まで)作っていました。工場の部品の調達は、基本日本からの輸入です。染料はオランダ、ドイツ。特にドイツが多かったかな。メンテナンスのための部品も、全部ラゴスの港に入れて、そこから運んで組み立てました。でもラゴスでしょっちゅう部品が盗難に遭う。しかもそれをアレワ紡績に売りに来る。それがナイジェリアです。港まで見に行ったりもしましたけど、港は危なくて。よく言ったじゃないですか、「腕時計取るのに腕落とす」と。

8.原綿不足

深尾 1982〜1983年頃、原綿の収穫が減ったために隣国カメルーンに調達に行きました。綿花の作付けから始まって、天候により、年度によって生産量が大きく変わるんです。もう世界的にそうなんですよね。私自身は入社間もなく、3年目から原綿課に入りましたから、世界の相場はよく知っています。そういう相場をウオッチして、購入を決めるというような役割の1人として仕事をしていました。ナイジェリアも、非常に不作で、綿がなくなる。そうすると、もう工場の在庫が1ヵ月〜1ヵ月半ぐらいしか残ってない。世界から輸入したいんだけど、それもできない。対応を協議するために日本側と連絡が必要だったのですが、カドゥナからは電話ができずラゴスに行く必要があった。でも飛行機が欠航していたため、車でラゴスまで10時間以上かけて出かけて、電話でやりとりしたんです。そしたら、「カドゥナからカメルーンへ行け」って電話で言われて。そこで、まずラゴスから飛行機でヨラ(Yola)(ナイジェリア北東部の都市)に行き、同時に、カドゥナの社長車をヨラに呼び寄せ、待機させました。ヨラで社長車に乗り換え、陸路で国境を越え、カメルーン北部のガルーア(Garoua)に行きました。

 今でも覚えていますが、ガルーアのホテルへ入ったのですが、残念ながら私も一緒にいたナイジェリアンもフランス語はできない。そこでホテルの従業員をつかまえて、フランスの綿花公団に連絡を取って、綿花の購入を手配したんです。国際電話をしなければならず、時間がかかりました。そのときには確か綿花公団の本部はフランスにあり、フランスの本部による指示の下でカメルーンの綿花は采配されていました。したがって、フランス側の了解を取っていかないと、カメルーンからナイジェリアへの輸出はできないのです。結局のところ、これは成功しました。あれは移動距離も長くてダイナミックだなと思いました、自分でも。そのとき同行した取締役のアチムグ氏が、ガルーアに動物園があったのですが、そこで初めてキリンを見たと言う。覚えてますけど、国境超えて「キリンがいた」。

9.デザイン

深尾 日本からデザイナースタッフが来ていました。もちろんナイジェリア側にも教育して指導していました。近隣諸国ではクリエーティブなものもそうたくさんあるとは思えない。マーケットから見つけてきて、類似品を作っていたという印象があります。オリジナルはフランス女性のデザイナーでドミニク ペクレール(Dominique Peclers)氏(ユニチカの契約者)からのアドバイスが多かった。

【他国から輸入される製品との競合】それはありました。ただ値段の問題が大きかったと思う。現地で作ったらそれなりに安いものが作れますから。その後には中国の製品が入って、現地の生産は全部なくなってしまったわけですけれども。1980年代には当然日本からも輸出をしていた。それはアフリカに限らず中近東に対しても。東洋紡も鐘紡もユニチカもみな同じです。

 これに対してアレワ紡績は、ナイジェリア政府が日本に経済援助を求めてきたことが始まりです。繊維に関しては日本の紡績協会がそれに対応すると。その時の紡協の委員長が大日本紡績(現ユニチカ)の社長の原吉平氏で、後年JETRO(日本貿易振興会)の理事長もされましたけれども、原さんがとても貢献されました。

 それで、私の赴任当時はユニチカから社長と副社長を、また現地から、ナイジェリアンのゼネラル・マネージャーを出すということになりました。十大紡ですから、技術屋さんは鐘紡や東洋紡であったり、富士紡からは1 人。他に、加工・染色は大阪染工、彫刻は髙木彫刻かな。それから、染料・部品の貿易・輸入はニチメンが担当しました。

10.記録

深尾 この話の延長線で申し上げると、京都工芸繊維大学に上田文先生という方がいらっしゃる。インドネシアのバティックプリントを研究されています。その延長線上でナイジェリアのアフリカンプリントに興味を示されて、研究を続けておられるんです。ご縁ができたのはまだ3、4年前ですけれども、2、3回大学へ行ってアレワの話をした。生存者が少なくなったので、全員に手紙を書いて、アレワ紡績を調べてみたいと。去年の春に私の自宅にも訪ねてこられ、少しアレワ紡績のお話をしたという経緯があります。

 この本(並木誠士・上田文・青木美保子編(2019)『アフリカンプリント:京都で生まれた布物語』青幻舎)にも書かれている染色の中島正行君がアレワ紡績に15年ほどいた。彼とは今も交流があって、以前アレワ会(OB 会)の幹事もした。高齢化でもう解散しましたけれど。亡くなった方も多い。だから、個人的には私、アレワ紡績の盛衰を記録したら、博士論文が書けると思っています。残念なことに資料が行方不明なんです。一切ない。それがもう私にはもったいなくて。だから、誰かがそういうことに興味・関心があって、アレワ紡績の歴史を書くなら、もう全面的に私は応援したいと思っています。そうは言ったって、私なんかアレワ紡績に赴任していたのはたかが3年間ですし、それは継続してやれてないんです。日本の経済観、ナイジェリア観も含めて、そういう時代があったということを伝えたいという気持ちは強いですね。

インタビューを終えて

 物事が何もかも円滑に進むはずはなく、「日本では考えられない」と表現されそうな問題は多々発生していた。一歩引いて構造的な問題を批判的に検討するのは大事だし、すべきである。ただ一歩中に入って、何が起こっていたのかを知り考える機会は、思いのほか少ない。それを現場というならば、現場では、例えば給料が払われなければ交渉する(集団で抗議し、石を投げつける)人がいるし、それに懸命にこたえようと銀行を走り回る人がいるし、それを勇敢だと称える人もいる。部下を叱責する人もいれば、上司に腹が立って「ブラックメール」を送る人もいれば、先回りして警察と話を付けている人もいる。ナイジェリアで生きる人びとと、日本から派遣されてくる人びととの熱い「交流」が、良くも悪くもそこにはあった。このとき深尾氏は、ナイジェリア人がダメだと言って切り捨てたり、利益最大化を第一に考える経営をまい進したりするわけではなかった。物事の線引きをうまくしながら、「どうしてそうなるのか」を問いかけつつ、冷静に物事を見ようとした。そして豊かな知的好奇心のもと、ナイジェリアを車で走り回った。いまは当時と時代が違う。しかしそこで求められる態度は、変わらないことも多い。

 深尾氏は、物事を記録し続けていた。だからこそ「自伝」を3本も書いている。私は、さまざまなかたちでアフリカを生きている読者の方にも、ぜひ記録をつけ続けてほしいし、それを積極的に語ってほしいと思う。「普通の日々」と思われるものこそが最も重要だし、「普通」は脆くも簡単に崩れ去るし、そこには私たちにとって多くのレッスンがある。

 最後にもう一度。『人と地球をたずねて』をはじめ深尾氏の「自伝」には、ナイジェリアでの経験以外にも膨大なこと(ドイツ駐在時のこと、「引退後」の大学院進学のこと、コンゴ民主共和国でのストリートチルドレン調査のこと、大学事務局での大学改革のこと、書評やインタビューの記録など)が書いてある。よろしければぜひ手に取っていただきたい。詳細はAJF 事務局までご連絡を。(玉井)

(1) 1918年〜1964年の社名は「大日本紡績株式会社」、1964〜1969年までの社名は「ニチボー株式会社」であった。1969年に日本レイヨン株式会社と合併した際に「ユニチカ株式会社」と改称している。
(2)  ユニチカ(1991)「構造的不況打開への経営努力(昭和30年~44年」『ユニチカ百年史』(https://www.unitika.co.jp/company/archive/history/pdf/nichibo05.pdf, 2022/2/1閲覧)
(3)  双日歴史館(2021)「【日綿實業・ニチメン】ナイジェリアに紡績工場」(https://www.sojitz.com/history/jp/era/ipp.php, 2022/2/1 閲覧)
(4) 望月克哉(2006)「ナイジェリアにおける中国系ビジネスの展開」『企業が変えるアフリカ―南アフリカ企業と中国企業のアフリカ展開―』アジア経済研究所、pp.127-143
(5) ナイジェリア南西部にある都市で、当時の首都があった。現在のラゴスの人口は約2千万人で、いまも多くの日系企業があるほか、JETRO の事務所もある。
(6) NEPA はNational Electric Power Authority(国家電力公社)。現在もそうだが、電気が送られてこないときに’No NEPA’と呼ぶ(叫ぶ)ことがある。
(7) 1967〜1970年、南東部のマジョリティであるイボ人を中心に分離独立を求めた内戦。
(8) ナイジェリアは1960年に独立して以降、1999年までのほとんどの期間が軍事政権下にあったが、深尾氏が赴任していた時期を含む1979〜1983年は民政化していた。深尾氏が離任した1983年の12月末にクーデターがあり、再び軍事政権下に戻った。
(9) カドゥナの北部約200㎞にあり、車で2時間半ほどの位置にある都市。