斉藤 龍一郎さんが語るAJFの2000年から2016年

人とつながる歩み

AJF’s 2000-2016 history of connecting with people

『アフリカNOW』115号(2020年11月30日発行)掲載

さいとう りょういちろう:1955年生まれ。東京大学教育学部行政学科卒業。1984年から2004年まで解放書店に勤務。2000年から2016年までAJF の事務局長を務める。立命館大学生存学研究所運営委員(2013年4月~2021年3月)。障害学会理事(2011年10月~ 2017年9月)。AJF理事(2000年4月~)。人の家に行くのが好き。家族と違う人のつながりがひろがっていかないかなーと夢想する。やりたいことは読書。


― アフリカに興味を持ったきっかけ、AJFとの出会いについて教えてください。
アフリカへの興味のきっかけの一つは、1990年に開催された「アパルトヘイト否!国際美術展」。その下町展をやって津山さんに来てもらって学習会も行ったり、アフリカに関連する情報を集めたりしていた。もう一つは、当時勤めていた解放書店の同僚に教えてもらったアフリカ文学。グギ・ワ・ジオンゴ(Ngũgĩwa Thiong’o)の作品を知って、すごいなーと思った。その同僚に「下町展で終わりじゃない。スワヒリ語やるんだろ」と言われて、二人で10年近くかけ、タンザニアでベストセラーになっていたユーフレイズ・ケズラハビ(Euphrase Kezilahabi)の小説をスワヒリ語で読んだ。だから僕はアフリカを救済の対象と思ったことなんてなかった。「すごいなー」という存在だった。
AJFにつながる出会いは、1993年のアフリカ開発会議(TICAD I)に向けたNGOの国際シンポジウムの準備会合に行ったとき。その後、1994年にAJFが設立され、会員になった。AJF でインパクトを受けたのは、本人たちに語らせること。日本人が代弁したり、こうしてあげたらいいとお膳立てしたりするのではなくて、アフリカの本人たちが語るのが一貫している。そして言いっ放しにするのではなく、日本側からもさまざまな働きかけをしている点だった。
上野のAJFの事務所が職場から近かったので、帰りに寄ってみようと思った。職場は土曜も出勤で月曜日が休みだったので、AJFに顔を出して発送作業やイベント案内の作成などの事務方作業を手伝った。

AJFの活動をなんとか後につなぎたい

― 事務局長を引き受けられて、どんなことに気を配られましたか。
2000年にそれまで中心になって活動していた運営委員や幹事が辞めてしまった。そのとき僕はまだ解放書店の仕事をやっていて、休日の月曜日にボランティアで事務方の仕事を手伝う程度だったから、残っていたスタッフがやるのが妥当だと思っていた。ところが、その人は引き受けないというし、初代事務局長の尾関葉子さんからメールが来て「事務局長やらないの」と言われてしまった。ご指名だったので、しょうがないな、と引き受けた。僕はとにかく国際協力のイメージもないし、人とのつながりもないので、何を考えたらいいのかもよくかわからなった。でも、会員がそこそこいて、本人たちの声を伝える活動をしている団体は大事だから、何とか後につなぎたい、という思いがあった。当時はいくつかのワーキンググループが総会で事業を承認してもらい、それぞれが独自に予算を立てて活動していた。組織形態としては普通じゃない。会員が集まってやるというのは大いに結構だけど……。じゃ事務局では何をするのかって考えて、会員に情報提供をしようということでメーリングリスト’ajf-info’を立ち上げた。ほかに事務局が関与したのはスタディツアー。当時AJF のスタディツアーは敷居が高くて、セネガルのダカール空港集合というように現地集合だった。スタディツアーに行った人たちは独自に立派な報告書を出していた。
あとは団体だから会報をきちんと出す、そして会費をきちんと集める、この二つは事務方仕事の一番の基本だと思った。そういうことがやりやすいよう、名簿の整理や発送作業のデータベース作成など環境を整えた。こういうことは職場でやっていたので、問題なくできた。この頃、解放書店で仕事を19時ぐらいまでやって、自転車で15分かけてAJFに行き、日付が変わるまで作業するという毎日。夜来てやれることは限られていて2002年までは事務局を回すので精一杯だった。
2001年に当時の森喜朗首相が歴代総理大臣で初めてアフリカを訪問して、2003年に東京TICAD Ⅲを開催することを明らかにした。そこへ向けて何かやらなければということで、感染症研究会と食料安全保障研究会の二つの研究会を起ち上げることになった。また、2001年秋に開かれたTICAD閣僚会議に、主催者がアフリカから市民社会メンバー3人を呼ぶことを決め、AJFもアレンジすることになり、その準備にも追われた。
2004年にはAJFをNPO法人化した。この年、解放書店は職員を3人も抱えると赤字になることが確実になった。だったらAJFの活動もあることだし、一番長い僕が辞めようと決めて、AJFの専従になった。昼間も作業できるようになり、LANを組んで、複数の人間でデータやプリンタを共有できるようにした。ADSLになると通信費が半分になったね。専従になって時間ができたけど、給料はそりゃまあ下がるよね。でも、不安なんか感じなかった。感じなかったから長くやっていられたんだろうね(笑)。いろんなことが動き出してやりがいもあった。
僕は解放書店やAJFでの仕事のほかに、脳性麻痺者の泊まり介助を続けていた。病気でお腹を切った二度目の2013年の夏まで30年間続けていて、介助先のおじさんから制度の枠を使うことにしたから「もう来なくていい」と言われたので辞めた。介助を続けていたのは、ある種のくされ縁みたいな介助者仲間がいたことが大きい。僕が一番年かさ。その下は10歳くらい年下の人までいた。彼らの顔を見ると途中でけっぽるわけにもいかないな、と思っていた。僕は昔冷たい人間、人のことに関心をもっていないと言われたことがあった。変わったのは大学で運動を始めたのが大きかった。障害児の普通学級就学運動に加わって、人の家に行ったのが大きい。僕らの頃の運動は、同じ釜の飯を食ったり、汚い部屋でゴロゴロしながらガリ版印刷の作業をしたりしていた。そういう環境の中で人とのつながりが見える。子どもの就学運動だけど親が動くから、家のことはどうするの?となって、親の代わりになる兄ちゃんや姉ちゃんが出入りして、子どもにラーメンやひきわり納豆を作って食べさせる。そういう仲間の中にいると否応なく人が迫ってくる。その時に付き合い始めた人間が今もつながっている。

当事者とつながるAJFの人権アプローチ

― 2001年に立ち上がった、二つの研究会について教えてください。
AJFとして課題に継続的に向き合い活動するということで、林達雄さんが中心になった感染症研究会と、吉田昌夫さんが中心の食料安全保障研究会が立ち上がった。当時僕は感染症研究会を担当し、幹事の河内伸介さんが食料の方を担当していた。林さんは、1990年代後半に大きな手術をした後に療養を兼ねてタイに行き、2000年〜2001年にはケニアと南アフリカへ行ってHIV陽性者運動とつながりを作って帰ってきた。林さんがタイにいた頃、HIV陽性者運動が立ち上がり、タイ政府が製薬会社にジェネリック薬を作らせるなど、いろんなものを動かしていた。彼らの姿に触れて、林さんは元気を取り戻し、日本に戻って、1999年の沖縄感染症国際会議で何か言うべきだと、いくつかのNGOに働きかけ連名で意見書を出した。その後、南アフリカのダーバンで開かれた国際エイズ会議に参加し、アフリカのHIV陽性者運動の高まりを強く感じた。僕は当時、あまりHIV/AIDS についてイメージがなかったが、調べると製薬会社が特許裁判を起こしたりする一方で、治療への権利が重要な問題であることがわかった。アフリカのエイズに関する情報が医療など特定分野に集中していてHIV 陽性者たちの声が伝わってこないというので、海外の関連するニュースを日本語にしてメーリングリストで流し、資料集を作った。当時ニューヨークにいた吉田智子さんがいろいろな情報をくれたので、その中から選んでマニラにいた原田洋子さんがわかりやすく翻訳してくれた。
2002年になって、感染症研究会に参加していた稲場雅紀さんから、仕事を探してますとメールが回ってきた。そこで、まずナイジェリアの調査へ行ってもらい、外務省NGO活動環境整備事業NGO研究会の受託が決まったところで事務局に入ってもらった。稲場さんに来てもらったことはラッキーだった。僕の最大の功績かもしれない(笑)。それまでHIV/AIDSは保健医療分野でという扱いだったが、稲場さんはそれを人権の問題としてとらえていた。1997年に日本ではそれまでの予防・隔離を基本とする伝染病対策を見直し、感染症対策法ができた。名乗り出れば治療が受けられて生き延びることができる太陽政策。そのためにいい条件を勝ち取る、そんな取り組みや行政側の人権指針作りへの働きかけなどを通して、稲場さんは、感染症対策と人権に関する具体的なイメージを持っていた。しかも世界のエイズ・アクティビストたちとさまざまな形でつながっていた。
そうした経験を踏まえて、AJFが事務局を担った2002年の外務省主催NGO研究会では、ケニアのアスンタ・ワグラ(Asunta Wagura)さんや南アフリカのフォロゴロ・ラモスワラ(Pholokgolo Ramothwala)さんを呼んで話をしてもらった。でも、そういった取り組みになじまない人もいて、もっと技術的なことや実践につながることをやってほしいとの声がもれ伝わった。でも、HIV陽性者運動って本来実践的な話で、誰が実践するのかということ。本人たちが治療を求めて運動し、周りの人間がそれをサポートし環境づくりをする。林さんがケニアと南アフリカのHIV陽性者運動とのつながりを作り、稲場さんが来たことが、AJFの感染症研究会が当事者運動に注目し、連帯を原則に据えて活動することにつながった。HIV/AIDSは国際保健の取り組みの形になり、外務省のホームページに研究会の成果はアップされている。
その頃は、国際協力機構(JICA)もエイズのことをやらないと、という風潮だったが、薬の問題が避けて通れなくて、HIV/AIDS対策の一環として結核が直接の死因となることが多いので、結核対策に力を入れるという方針だったと聞いたことがある。あるAJF会員のJICAスタッフとビールを飲んだときに「AJFは必要とするすべての人にエイズ治療をなんて絵空事を言っていると信頼を失うよ」と言われたことがあった。当時はダイナミックスが見えないような状況だったからそんな感覚だった。アフリカではエイズで毎日人が死んでいることばかりが報じられ、意識のギャップがあった。意識を向けるにも大前提になる情報がないと話にならないから、『エイズとアフリカ資料集』を第四集まで発行した。計300冊ほど売った。それを引き継ぐ形でグローバル・エイズ・アップデイトの編集とメールマガジンでの配信が始まった。
HIV/AIDSの活動で一番印象に残ったことは、2002年にエイズで亡くなった国際協力の専門家の遺族から350万円の遺贈があったこと。会員を通じてAJFに話が来た。HIV陽性者が治療にアクセスする権利という、他でやっていない活動に取り組んでいたからAJFに来たのだと思う。遺贈は人のつながり。その人は亡くなっていないけれども、その思いがつながった。そして、「アフリカに関する情報がこうやって入ってくるのはいいなー」と思ってきてくれる人とか、「当事者がやるのはいいなー」というところで、AJFの存在意義があるかなと思うようになった。HIV/AIDSの取組みは、AJFの会員も含め、NGOや援助関係機関の関係者・研究者などもさまざまな形で貢献してくれた。

食料安全保障研究会の取り組み

第一期の2001~2003年の食料安全保障研究会は河内さんが中心になり、AJFでも提言書を出してウェブサイトに掲載した。その後、2006年から第二期として、東京農大の稲泉博己さんに理事になってもらって、2010年ごろまで学習会を年に2、3回開催した。2008年に横浜で開かれるTICAD Ⅳに向け、横浜市と国連食糧農業機関(FAO)、AJFの共催でアフリカの食と農のシンポジウムが開催された。この時は、明治学院大学の勝俣誠さんが司会をやった。シンポジウム後の交流会には、マトケフライや東京農大が作ったヤムイモ焼酎なんかも出された。また、スタッフからこれで終わりは残念という声が出てその後の「食べものの危機を考えるセミナー」や「世界食料デー」月間につながった。
「食べものの危機を考えるセミナー」は2016年まで継続し、「世界食料デー」月間はプレイベントとキャンペーン、交流イベント’WORLD FOOD NIGHT’の開催など、現在も取り組みが続いている。AJF、FAO、ハンガー・フリー・ワールドは一貫してこの企画にかかわってきている。その後、冊子『アフリカの食料安全保障を考える』を出した。また、同じころに農水省からFAOに2年分の予算がついて、Alliance against hunger & Malnutritionの日本版をやろうということで起ち上がった「ゼロハンガーネットワーク」にも参加した。

食料に関わる僕自身の立脚点

アマルティア・セン(Amartya Sen)の本を2000年ごろに読んだのが大きかったね。あれはインパクトがあった。そこに食べ物があるからと言って誰もがアクセスできるわけではない、お金がないとだめということをエンタイトルメント(entitlement)という概念で説明していた。あともう一つは、1993年にシアトルに行ったときに買った’Current History’という雑誌に掲載されていた「善をなさんとして悪をなすのか」を読んだことだ。食料援助は諸刃の剣と書かれていた。食料援助がなされたら、耕作者は作る気がなくなってしまう。作っても買ってもらえない。センを読むと飢餓対策の道は、飢餓が起こりそうな場所で公共工事をやって、お金を持たせることだと言っている。お金を持っている人のところに商人が食べものを持っていく。そういういうサイクルを抜きにして食料援助をしているのはちょっと違うのではないか、というのがベースにある。
食のほかに農を巡る問題では、小農の権利宣言が出てくる。土地に応じた利用法が必要。機械的に同じ技術で大量生産をやるのでない。農っていうのはそういうのに適していない。アフリカで大豆の普及などやるのはちょっと違うんじゃないかな。アフリカでは多様な豆類が栽培されているのに、大豆が栄養によいからアフリカで作れというのは違うだろう。AJFの食料安全保障委員会ではこのような話を突っ込んでしていた。食べものの危機を考えるセミナーは身近なテーマで、多くの人と考えていこうとしていた。食料安全保障研究会の内容はウェブサイトで発信したり、『アフリカNOW』で特集したりしたけど、もう少し突っ込んで、先ほどの視点からどうなのか、検討するのはこれからの課題だよね。

会員減少の危機、会員とのつながりと交流

― 会員の皆さんとどのように関係を築かれてきましたか。
今でも数字ははっきり覚えているけど、事務局長になったときに会員が283名いた。ところが4年で198人に減ってしまった。当時のAJFの活動はネットワーク活動の裏方で、表立って「会員になって」と勧誘できる状態ではなかった。会員減少は会費・寄付の収入減少に直結し、AJFの財政も非常に厳しい状態だった。対応に苦慮していたところ、会員ではないけれど中小企業コンサルタントが協力してくれることになり、課題検討会を行った。その時コンサルの人から、「AJFの強みは何だ」と問われて、突き詰めて「人脈」だということになった。僕の介助者仲間の東大の教員を通して岩波書店に働きかけ、林さんのブックレット『エイズとの闘い 世界を変えた人々の声』を出版したり、個別につながりのある人に積極的に入会を働きかけたり。稲場さんはNGO研究会で関わり合った人たちに働きかけ、50名を超える入会があった。それぞれの働きかけがあって2004年度末までに会員数は約270人に増えた。そばでAJFの活動を見ていてくれていた人が入ってくれた。
会費を担保するのが会報。送るときに、払込用紙を同封して会費納入のお願いと、「この記事はぜひ読んでくださいね、今どういうことをしていらっしゃいますか」と書き添えると会費が入って、今こんなことやっているよって言ってくれる。その積み重ね。会員の力を活かすために会員とのホットライン用アドレスを作った。会員からの情報をキャッチするしかけだよね。それから会員に会うためにアフリカ学会に入って、毎回行っていた。学会の会場で僕の顔を見ると、会費を払おうと財布を出してくれる人もいたし、今度、入会手続きするからと声をかけてくれる人もいた。また、ちょっと違った視点から質問をしていたので、他の人がおもしろがってAJFの活動を知った人もいたようだ。戸田真紀子さんはアフリカ学会であいさつを交わす程度だったが、スティーブン・ルイス(StephenLewis) の’Race Against Time: Searching for Hope in AIDS-Ravaged Africa’ の書評を書いてと依頼した。そしたら戸田さんはこの本を気に入ってくれて、大学のゼミの教材にして何度も読んでくれているそうだ。押しかけて書いてもらったうえに会員になってもらった(笑)。押しかけ原稿依頼は結構やっている。
『アフリカNOW』はツールとして役に立つ。読み手がこういう人なんだよって言えるからね。研究者も国際開発のことをやっている人もいるって言えば書いてくれる。アフリカ研究は発表の機会が限られていることもあるから、若手研究者も喜んで書いてくれたりしていた。
あと多少なりとも本を読んでいないと話のねたがないから、よく読んできた。集中できるときは1日に2冊。600ページぐらいの本を2冊読む。読むのは早いほうかもしれない。老眼もまだ大丈夫。最近はもっぱら図書館で借りて読んでいる。今、熊野純彦の著書を読んでいて、とてもおもしろい。
インターンなど若手に本を読んでもらって、著者にインタビューして、『アフリカNOW』に寄稿するとか、本を通して理解や人のつながりをひろげるのもAJFにとって大事なことだと思う。
会員はAJFの力の源泉。会員データベースにメモを書いておいて、メールも残していて、この人はこういうことに関心がある、とわかるようにしている。記録はそういう風に使う。会員の出番はいろいろある。会員の集いに出てもらうとか、『アフリカNOW』に書いてもらうとか、そこまでいかないなら写真の紹介とかでも。この前の会員の集いはよかったね。ジンバブウェのショナ彫刻の話を宮園さんにしてもらうことができた。
今後の事務局に期待することは、会報をちゃんと出すこと、そして、会員の力を活かしてほしい。

2020年10月30日 AJF事務局にてインタビュー


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