IT時代の狩猟採集社会を考える
Mobile phone in Kalahari Desert
A discussion on hunter-gatherer society in ICT age
『アフリカNOW』No.95(2012年7月発行)掲載
執筆:丸山淳子
まるやま じゅんこ:京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科研究指導認定退学後、日本学術振興会特別研究員、同研究科助教を経て、現在、津田塾大学学芸学部国際関係学科専任講師。博士(地域研究)。専門はアフリカ地域研究・人類学。南部アフリカをフィールドとして、現代世界において狩猟採集社会が自らの文化や社会を再編する過程を研究している。主著は『変化を生きぬくブッシュマン:開発政策と先住民運動のはざまで』(世界思想社、2010年)。NPOアフリック・アフリカ副代表理事。
「今日ね、肉がとれたの。もうすぐこっちに来るなら、あんたも食べる?」電話に出るなり、カラハリに調査に行くたびにお世話になっている家のお母さん、オーマが話し出す。当分、日本を離れられそうにないと返事をすると、すぐさまオーマが叫ぶ。「ジュンコ、まだ来ないってー。その肉食べちゃっていいよ」。子どもたちがあっさりと歓声をあげるのが聞こえた。こんなふうに日常的に電話がかかってくるなんてまだ信じられないような気分で、私は引き続きオーマの話に耳を傾けた。
私が、ボツワナのセントラル・カラハリ地域で調査を始めたのは2000年のことだった。「カラハリ砂漠を遊動する狩猟採集民」として知られるサン(San)の人々の多くは、政府が進める開発計画の拠点に定住し、学校に通い、工事現場で働いていた。私の調査地となった開発拠点はコエンシャケネ(Kx’oensakene)と呼ばれ、ダイアモンド経済で潤うボツワナ政府が多額の予算をかけて建設した小学校や病院、役場が整然と並んでいた。
それでも当時は、電話線などひかれてはいなかった。100㎞も離れた県都ハンツィ(Ghanzi)まで行かなければ、公衆電話も私書箱も使うこともできず、ほとんどの人がこれらとは縁のない生活をしていた。日本に帰ってしまえば、私が気軽に彼らに連絡するすべなどなかった。それでもオーマは笑って言ったものだった。「大丈夫よ、あんたがまた来るって、私たちは知っているんだから」。
ところがそれから10年以上がたって、2011年、コエンシャケネにもついにケータイが導入された。彼らにとっては、生活圏内で個人が利用できる初めての通信機器だった。ボツワナ政府が2009年に始めたNteletsa(「電話してね」)という名のプロジェクトによって、電話線よりも先にケータイの電波塔が建てられたのである。
ボツワナの電気通信史
ボツワナの電気通信史は長くはない。当時のイギリス保護領政府が、この国に独自の電気通信部門を立ち上げたのは、1957年になってからのことだった。しかしその後、独立を経て1975年になっても、固定電話回線は5000にも満たなかった。人口密度が低いこの国では、全国にまばらに分散する居住地すべてに電話回線を整備するには莫大なコストがかかり、実現は容易ではなかったのである。1980年になると半官半民のボツワナ電気通信公社(BTC)が立ち上げられ、1992年までに回線数はようやく4万4000にまで増加した。しかし、それでも有線電話網がカバーしている地域は主要都市に限られていた。
こうした状況が変わるきっかけとなったのが、1990年代に多くのアフリカ諸国で進められた電気通信業界の自由化と民営化であった。ボツワナでも1996年に電気通信産業の多様化と自由競争を監督する独立取締機関BTA (Botswana Telecommunication Authority)が設立された。2年後には、Mascom WirelessとOrange Botswana(当時はVista)が、BTAからケータイ免許を得てBTCの独占状態は崩れた。2000年以降、BTCの提供する固定電話が、回線数13?14万、電話密度7%前後を維持したまま今日に至っているのに対して、ケータイの契約数は2000年にすでに20万、電話密度も12%と固定電話を超え、以後急速に伸びていく。
こうした状況を受け、2005年には国内初のITに関する政策が発表され、翌年にはケータイ重視、自由競争の推進などが盛り込まれた「地方の電気通信に関する戦略」が発表された。そして、この方針を具体的に進めるために2009年にNteletsaが始まった。Nteletsaは、遠隔地にあって低人口や低所得などが理由でケータイ導入の採算がとれない集落にも、政府が資金を提供して、電波塔とケータイの充電やインターネットなどができるコミュニケーション・センターを建設することを進めた。対象集落は197にのぼり、これによって国内の500人以上の人口をもつ集落すべてが、ケータイの電波圏内に入ることになった。一連の政策にも後押しされ、2000年代半ば以降、ボツワナのケータイ普及率は急速に上昇し、電話密度は、2010年には100%を越えた。
Nteletsaの推進によって、遠隔地に住むサンも、都市部で流通する情報にアクセスできるようになり、新たなビジネスのチャンスを獲得して「貧困状況」から抜け出し、「近代的な生活」に移行できると期待が高まった。それは、サンの遊動的な狩猟採集生活を「貧困状況」とみなし、それを「改善」し主流社会に統合させることを目指してきたボツワナ政府の方針に沿った期待でもあった。
ケータイが生み出す変化のきざし
ケータイが使えるようになって半年。コエンシャケネを訪れた私は、たくさんの人々がケータイを手にしている様子を目にした。その多くが、県都のハンツィ で購入できる一番安い機種で、アフリカ諸国で一般的なプリペイド方式を利用し、最も安い10プラ(約100円)のカードをときどき購入する程度である。それでも、ケータイへの関心は高かった。読み書きが得意でない人も、学校教育を受けた若者に、花や星などのアイコン付でアドレス帳に電話番号を登録してもらい、十分に使いこなしていた。
ところが、彼らのケータイの使い方は、政府やNteletsaの期待とは少し異なっていた。コエンシャケネの人々は都市部の情報にアクセスしたり、経済的利益を生み出したりするよりも、ごく身近な人々とのおしゃべりにケータイを用いているのである。これはケータイ導入からわずか半年という初期段階だからなのかもしれない。しかし、現時点でケータイがこの社会に生み出しつつある変化のきざしもまた、政府の期待した方向性とは重ならない。ここではそのことを次の3点から紹介したい。
まず、ケータイの登場によって活性化したのは、離れて暮らすサンどうしの交流だった。コエンシャケネのサンは、開発拠点への移住やそれ以前の旱魃の年などの移動によって、親族らと離散した経験をもつ。遠く離れた親族とは、これまでほとんど行き来がなかったが、近年急速にその交流が活発化している。それを促進している要因のひとつがケータイである。オーマも400㎞も離れた別の開発拠点に暮らす親族とときどき通話するようになり、互いに訪問しあうようにもなった。
次に、都市部に暮らす、いわゆる新興のエリートのサンとコエンシャケネ住民とのあいだの関係が強化されつつある点も見逃せない。離れて住んでいてもケータイを使って、故郷の政治的、経済的問題にかかわろうとするエリートは少しずつ増えてきた。彼らは、ケータイやインターネットを利用して、サンの直面する問題をよりひろい社会に訴え始めてもいる。国際的に展開される「先住民」の権利運動などにつながっていこうとする彼らが、ケータイを使うことによって、地元の人々とグローバルな動きとのあいだを仲介することも今後ありえるはずだ。
最後に、ケータイの利用が、開発拠点から原野への住民の移動を促進していることも指摘しておきたい。開発拠点から離れて、原野に自分たちの居住地をひらき狩猟採集を続ける人々は以前から存在した。しかし、原野の住まいは野生の動植物を利用しやすい一方で、政府の提供する雇用機会や福祉制度に関する情報へのアクセスは困難であった。このジレンマの解消にケータイが役立つことを、多くの人々が認識し始めている。実際、オーマもケータイをもち始めた年に、開発拠点から5㎞ほど離れた原野に居住地をひらき、「ケータイがあるから遠くに住んでも大丈夫よ、ちゃんと情報は得られるわ」とうれしそうだった。
このようにサンは、ケータイを、主流社会への同化を進めるためにではなく、彼らどうしの紐帯を新しいかたちで強めることに利用し、さらに「近代的な生活」だけでなく、原野での生活をサポートするものとしても使い始めたのである。アフリカに爆発的に普及しているケータイが、遠隔地に暮らす小規模な社会に変化をもたらすことは確かだろう。しかしその変化の向かう先は、かならずしも私たちが見慣れた世界ではないのかもしれない。そしてそのなかで変わらないものもあるはずだ。
カラハリと日本を直接つなぐこの小さな機械は、オーマと私の関係を、いままでよりもさらに楽しいものにした。でも、ケータイなんてなくても、彼女は私がまた会いに来ることを知っている。ケータイでの短いおしゃべりを終えて、私がいつも思い出すのはそのことだ。