新型コロナ・パンデミックの教訓は生かされたか

アフリカ中央部のコンゴ民主共和国を中心に流行していた感染症、エムポックスに関して、世界保健機関(WHO)は2025年9月5日、1年前の2024年8月14日に発令した「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」(PHEIC)の宣言を解除した。これは感染の中心をなしていたコンゴ民主共和国やその周辺のアフリカ諸国において感染数が減少したり横ばいとなったことによるもので、WHOは引き続き、検査実施のためのサーベイランスの強化やワクチン等の定期的な供給を呼びかけた。
一方、WHOがPHEICを布告する一日前の2024年8月13日に「アフリカ大陸の安全保障に関わる公衆衛生上の緊急事態」(Public Health Emergency of Continental Security: PHECS)を宣言していたアフリカ疾病予防・管理センター(アフリカCDC)が同宣言を解除したのは、WHOがPHEICを解除してから4か月半後の2026年1月22日になってのことであった。アフリカCDCは9月2日、同機関の「緊急事態諮問グループ」(ECG)の会議を開催した。ECGは、エムポックスの患者数や死亡率は多くの国々で減少していることや、また、エムポックスの「疑い例」に関する検査網羅率は30%から59%に増加したことなど、好材料を確認したものの、米国による援助資金の低下や、HIV陽性者が引き続き健康上の危機にさらされていること、サーベイランス体制が脆弱なままであること、件数や死亡率が高い12歳以下の児童のワクチン接種が進んでいないことなどの懸念を表明し、この時期のPHECS解除は不適切と判断したのである。アフリカCDCは1月になって、エムポックスへの対応体制の強化や効果的なリーダーシップの存在、地域の連携等によって公衆衛生対応能力が高まった結果、エムポックスの患者数が半減したことを確認し、1月22日にPHECSを解除するに至った。
コロナで打ち出された「100日ミッション」は役割を果たせたか?
エムポックスは最近、PHEICが2回発令されている。最初は2022年7月から23年5月にかけてであり、この時期は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のPHEICの発令期とほぼ共通する。その後、コンゴ民主共和国を中心に、寄り感染力や症状の強い「クレイド1型」の流行が拡大し、子どもの感染と死亡も相次いだことで、2024年8月にPHEICが再発令されることになった。
COVID-19パンデミックのさなかの2021年、英国を議長とするG7は「100日ミッション」を打ち出した。これは、平時からパンデミックになりうる病原体などに関する調査・研究を進め、実際に公衆衛生上の緊急事態が生じてWHOがPHEICを発令してから100日以内に、診断薬、治療薬、ワクチンを開発する、というものである。実際、100日ミッションを実施するために、「国際パンデミック準備事務局」(International Pandemic Preparedness Secretariat: IPPS)を設置し、WHOやG7、G20、産業界などとの連携を深めてきた。COVID-19終息後、大規模な国際的な公衆衛生上の危機となり、実際にPHEICが発令されたエムポックスに関して、100日ミッションをはじめとする、COVID-19の経験を踏まえて整備された諸制度は機能したのだろうか。
まず、ワクチン・診断薬・治療薬を見てみよう。エムポックスの迅速診断検査を行える検査キットは、2025年中にWHOの緊急使用許可を得たものが2種類のみで(PortNAAT Monkeypox Virus testとCowingene Monkeypox Virus Typing Detection kit)、事前審査プログラム(Prequalification: PQ)を通過したものはなく、製造工場も世界に2か所(中国)しかない。これはエボラ・ウイルス病やCOVID-19に比較して大きな違いである。100日ミッションで検査・診断の開発を担う「革新的新規診断技術協会」(FIND: Foundation for Innovative New Diagnostics)は、200以上の迅速診断キット候補について分析したが、実際に現場で迅速診断キットとして活用できる感度を持つものはわずかしかなかったという。
それぞれの弱点を克服できていない二つのワクチン
ワクチンについては、エムポックスに効果のあるワクチンは、デンマークのバーヴァリアン・ノルディック社(Bavarian Nordic)が販売している、エムポックス用に比較的新しく開発されたワクチン「MBA-VN」と、日本のKMバイオロジクス社(旧化血研)が取り扱う、70年代に日本で天然痘の予防に使われたLC16ワクチンが、アフリカで主要に使われた。これ以外に、米国のエマージェント・バイオソリューションズ社が取り扱い、主に米国で使われているACAM2000がある。これらのワクチンはいずれも、現物寄付等でアフリカに供給され、製造技術の移転や現地生産には至っていない。また、MBA-VNはHIV陽性者など免疫不全の人にも安全とされる一方、2回目の流行で深刻な影響が出た12歳以下の子どもについては、臨床試験を通過しておらず、現状では、メリットがデメリットを上回る場合の使用しか認められていない。一方、LC16ワクチンは70年代に種痘に使われたため子どもへの安全性は保障されているが、一方で、免疫が低下した状態にあるHIV陽性者など免疫不全のある人には推奨されていない。「100日ミッション」はPHEIC発令後100日以内にワクチンを開発することが目標とされていたが、エムポックスについては、発令から1年以上たっても、既存のワクチンを特定の状態にある人に対して使用できるかどうかについて確認することができていないのである。
不十分な資金拠出:流行地域を問わず必要な資金確保が出来る仕組みを
COVID-19パンデミックは、上記の「100日ミッション」のみならず、2023年のパンデミック基金の設立や、2025年のWHOのパンデミック協定の策定など、パンデミック予防・備え・対応(PPPR)において多くの新しい試みを生み出した。しかし、これらは、COVID-19の次に生じた公衆衛生危機であるエムポックスについては、充分に機能したとは言えない。パンデミック基金は、PHEIC発令後1カ月たった10月19日、アフリカ諸国のエムポックス対策を支援するために「ファスト・トラック」として合計1.29億ドルの資金を拠出した。これは対策費としては一定の効果を持ったものと思われる。しかし、これを含め、PHEIC発令後、エムポックス対策に拠出された資金は10億ドル程度と推定されている。この規模の資金では、深刻な紛争や分断を抱えるコンゴ民主共和国をはじめとする広大な地域に広がる公衆衛生危機に対応することは困難であろう。本来、主要な感染拡大地域が先進国か途上国かを問わず、パンデミックをはじめとする公衆衛生上の緊急事態に対しては、現場での対策から診断薬・治療薬・ワクチンの開発に至るまで、必要な資金が得られるような仕組みづくりが必要である。












