「病原体アクセス・利益配分」(PABS)付属文書の策定に影を落とす米国の「分断統治」戦略
PABSシステム形成のための「付属文書」策定交渉

パンデミック協定(Pandemic Agreement 日本外務省ウェブサイトの解説記事(日本語)はこちら)は、2021年末の討議開始から4年を経て2025年5月の世界保健総会で採択されたが、残された課題が第12条の「病原体へのアクセスと利益配分」(PABS: Pathogen Access and Benefit Sharing 日本外務省による解説スライドはこちら)のシステムをどう形成するかということであった。このPABSシステムとは、パンデミック協定第12条によれば、パンデミックを引き起こす可能性のある病原体とその遺伝子配列情報などを迅速に共有し、それらの共有・利用から生じる利益(これらの病原体に対するワクチンや治療薬、診断など)の迅速・適時・公正かつ公平な配分の仕組みを指す。協定の同条文によれば、このシステムに参加する各製造者は、WHOと契約を交わし、病原体に対するワクチン・治療薬・診断薬のその時点での生産量の20%を目標に(最低10%は寄付、残りは手ごろな価格で)世界保健機関(WHO)に提供することになっている。
2025年の世界保健総会では、このPABSの詳細な事項を定める付属文書(Annex)を策定するために、「政府間作業部会」(IGWG)を設置することとなった。IGWGは同時に、パンデミック協定によって設置される「締約国会議」(COP)の手続きや財政など、また、その他、パンデミック協定で決定した事項の実施についての検討も担うこととなった。
2026年5月の世界保健総会に向けて南北の合意はできるか
7月に開催されたIGWGの第1回会議では、作業部会の進行を担う共同議長に(PAHO)からブラジルのトバル・ダ=シルヴァ・ヌネス・ジュネーブ国連代表部大使(Tovar da Silva Nunes、WHOの地域区分では米州地域)と英国政府代表のマシュー・ハーパー氏(Matthew Harpur、欧州地域)が選出されたほか、副議長にエスワティニ王国(アフリカ地域)、カタール(東地中海地域)、タイ(南・東アジア地域)、オーストラリア(西太平洋地域)の代表が選出された。また、検討スケジュールとして、2026年5月の世界保健総会までに、第2回会合を9月、第3回を11月、第4回を12月、第5回を2026年2月、第6回を3月に開催し、この第6回においてPABSに関する付属文書に合意し、世界保健総会に回すこと、また、7月と9月に第7回・第8回の作業部会を開催し、締約国会議の開催に向けて、残された課題について検討することが決まった。
このPABSの課題は、医薬品の開発に向けて病原体情報へのアクセスを重視する先進国と、パンデミック対応医薬品の公正・衡平な配分を重視する途上国の「南北対立」が交渉の進展にとって大きなネックとなっている。途上国側は、地球規模課題に関するあらゆる多国間交渉で、その団結によって強力な交渉力を発揮しているアフリカ・グループ、および、利益配分を重視する途上国33か国で作る「衡平のためのグループ」(Group for Equity)を中心に交渉に臨んでいる。
PABS付属文書の内容をめぐる南北対立の再燃
IGWGはスケジュールに合わせてこれまでに4回の討議が行われている。9月の第2回会合に向けては、各国やグループがPABS付属文書に関する提案書を提出するとともに、付属文書の構成について討議した。11月の第3回会合では、PABS付属文書のテキストが公表され、テキストに基づく討議が開始された。第3回で公表された付属文書は、討議のベースとするべく、(1)PABSシステムの目的や用語の定義、(2)システムの運用(病原体情報の確保、情報へのアクセス、利益配分)、(3)システムのガバナンスとレビューの3章で構成されたシンプルなものであった。これについて、多くの国々が、病原体情報の共有の方法や、情報を提供した国が得られる利益などについて詳細な内容が示されていない、と問題点を指摘した。専門サイトの報道等によると、途上国側は、利益配分について強制力を持った規定を盛り込むことや、実際に「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」(PHEIC)が宣言された際には、対象となるパンデミック対応医薬品(ワクチン、治療薬、診断薬等)の製造技術の移転により、各地域での精算が促進されるようにすべきであると主張した。特に、PABSを利用して情報にアクセスする製薬企業に対しては、標準的な契約書のモデルを示すべきとの意見が表明された。一方、欧州連合やその他の先進国、また、「関連するステークホルダー」として討議に参加する国際製薬団体連合会(IFPMA)などは、強制性の強い規定には否定的な発言を行った。これらの国々・主体は、新興感染症の研究および市場形成は公的資金によってなされており、製造業者に負担を科すことは製品開発において問題を生じさせることになる、と発言し、途上国の姿勢をけん制した。
第4回目の交渉は12月1日から5日まで行われたが、ここで途上国80か国が共同で、PABSシステムにアクセスしてパンデミックを起こしうる病原体に関する情報を得ようとする業者等が取り交わさなければならない標準的な契約についての提案を行った。この中には、履行すべき事項として、公正・衡平な利益配分の実施などが含まれている。これに大使て、欧州連合は、契約は自発的な強力への意思によるものでなければならないとして、標準的な契約文書を盛り込むことに反対した。結局、各国は第4回目の会合について、1月20-22日に延長会合を開催することを決定。それまでに、市民社会や民間セクター、研究者、病原体に関する研究所やデータベース管理者などを含む、関連するステークホルダーによる非公式な対話を行うことも決定された。第5回の会合は2026年2月9日~14日に開催される。
PABS協定策定交渉を蝕む米国の「分断統治」戦略
一方、ジュネーブを舞台とした、この多国間交渉の進展に対する大きなかく乱要素となっているのが、エイズ・結核・マラリアやその他の感染症に関する援助の復活をかけて米国がアフリカ諸国やその他の途上国、特に「米国大統領エイズ救済緊急計画」(PEPFAR)の対象国などと個別に二国間交渉で進めている「協定書」締結の動きである。米国はトランプ政権発足の段階でWHOからの脱退を表明しており、パンデミック協定に関する交渉からも離脱している。米国国務省は、「政府効率化省」(DOGE)の実質的な最高責任者であったブラッド・スミス氏を国際保健安全保障・外交局(GHSD)のトップに任命し、11月にはアフリカ13か国に使節団を送って急速に二国間協定の交渉を進めた。この協定の内容については、必ずしも全貌は明らかになっていないが、米国がアフリカ諸国に今後5年間の援助を提供するのと引き換えに、アフリカ諸国は米国に対して、病原体情報を含む保健・医療情報へのアクセスを長期間にわたって保証するとの内容が含まれているとされる。実際に、12月4日にはマルコ・ルビオ国務長官とケニアのルト大統領が「保健協力枠組」に調印を行った。米国は次いで5日にルワンダ、23日にエチオピアとも協定を結んでいる。
アフリカ諸国は、2025年1月の米国による援助停止と米国国際開発庁(USAID)の破壊によって、エイズ、結核、マラリアやその他の感染症対策において大きなダメージを被っており、このままでは将来、より深刻な危機に直面することは明らかである。米国はアフリカが各国レベルで抱えるこうした脆弱性につけこむ形で、二国間の「ディール」によって、各国から病原体情報を提供させる協定を締結していく戦略をとっている。アフリカ諸国は多国間交渉では「アフリカ・グループ」として団結力を誇っているが、各国別に分断されると、途端にその立場は極めて脆弱になる。実際、IGWGで交渉に臨むアフリカ各国の交渉官も、本国からの指示などを含め、この「分断統治」の圧力を陰に陽に受けているようである。「米国第一国際保健戦略」に基づく米国の「分断統治」戦略は、ジュネーブで展開されるIGWGの多国間交渉を空洞化させ、実質上、これを破壊しかねない。












