『アフリカNOW 』No.15(1995年発行)掲載
野田浩正さん(国際飢餓対策機構 エチオピア獣医師)の報告会から
エチオピアというと、10年前に英国BBCの報道がきっかけで全世界が注目した『飢餓』を一番に思い出される人が多いかもしれない。エチオピアは最近エリトリア独立に至る長い内戦があった国ですが、アフリカ有数の固有の文化と伝統をもっている国でもあります。その国と人々に魅了されて、野田浩正さんがエチオピアで暮らされてからもう7年弱になる。10月27日、帰国の際に東京お茶の水で開かれた報告会でその活動を伝えられた。野田さんの撮られた写真を掲載することができないのが残念だが、お話の一部をご紹介したい。(文責:尾関葉子)
飢餓から立ち直る
野田さんのエチオピア在住は、青年海外協力隊員として暮らしていた時期から数えて、もう7年目である。
今から10年ほど前、人が「バタバタと」死んでいく様子がBBCの映像で世界中に流され、世界中が「とにかく生き延びてもらおう」と食糧や薬、毛布などを送った事がある。「石を拾って食べているのでは」と思うくらいひどい飢餓状態であったという。
その緊急状態が過ぎた頃、野田さんの働く団体(国際飢餓対策機構)の誰からともなく「彼らが自力で食べていけるようにしよう」という意見が出たのが農村復興プロジェクトの始まりであった。
農村復興とその自立のために
かつては国土の50%が森林に覆われた緑豊かな国であったと言われるエチオピアだったが、煮炊きの燃料の為や耕作地の開墾に木を伐採して、今では国土の3%しか森林がない。そんな地で土が流れないように土壌保全をし、禿げ山に植林した。きれいで安全な水を手に入れるために、30m程の手堀りの井戸を年10数ヵ所作った。地域の人々が金を出し合って、井戸掘り職人を雇い、井戸ができた後は自分たちで修理できるようにした。団体は資材を提供した。これで飲み水から来る病気が歴然と減ったという。
同時に学校で保健衛生の授業も行った。学校の後、子供達はたいてい畑仕事の手伝いをする。爪の間に泥が入ったままにしているが、そうしたことが病気の原因になることすら知らなかったのである。
実習農場も開いた。人々は従来、あまり野菜を食べなかった。栄養改善の意味も含め、いろいろな作物を作ってきた。トマトやじゃがいも、人参などはその地域で3~4年前は誰も食べていなかった。トマトができた時、みんなが不思議そうに見ていて食べようとしなかった。そこで料理教室を開き、みんなに食べてもらった。「これは食べるものだったのか」というのが人々の感想だった。今では人参を生ででも食べているし、堆肥づくりも潅漑もやっている。
牛は命
野田さんは中央エチオピア南西部のチェハ・ウェンチ地方で働いている。ツェツェバエという、サハラ以南からザンビア・ジンバブエの北部の間に広く生息しているという蠅が、トリパノゾーマという寄生虫を運ぶのだが、この寄生虫が体に入った牛は、眠り病と呼ばれる病気になる。まず熱が出て食欲がなくなる。やがて貧血状態になりやせ細る。そのうえ耕作機の重労働に耐えかねてバタバタと死んでしまう。収穫があってせっかく家族に服を買ってあげたいと思っても、牛が死んでしまい新しい牛を買わなくてはならなくなる。結局は貧乏なまま。
エチオピアの牛は背中にこぶのあるおとなしい牛である。平均200~250kgのこの小柄な牛を2頭並べてすきを引かせ土地を耕す。アフリカ全土で毎年何百万の牛がこの病気で死んでいく。家畜の診療がなかったわけではないが、海外からしか薬は買えず、一般の人には手の届かない代物である。田舎に行く獣医も少なく「世の中から半分見捨てられたような人たち」であった。
野田さんの仕事は重労働である。家畜を広場に集めて注射を打つと言えば簡単そうだが、牛はびっくりするから逃げ回るし暴れる。思いきりお腹を牛にけられた経験もあるという。
34ヵ村の診療を担当しており、毎月1回は村を訪問している。薬は粉末で使うときに水で溶かすのだが、農民が自分で注射を打つと、汚れた川の水を使ってしまい、注射の傷から化膿し、かえってその傷のために死ぬことさえあったという。一時は1日800頭を診療したこともあったが、今では牛が健康になってきたので病気にかからなくなり、1日200~300頭の割合で視察している。
共に生きる
往診は近いところはキャンプの目の前、遠いところだと50キロ~100キロ離れたところになる。雨季になると毎日雨が降るため道がぬかるむ。車は動かなくなるが、その度人々が出てきて泥まみれになって車を押してくれる。「私も彼らに何かをしているし、彼らも私の為に何かをしてくれているのです」と嬉しそうに語る。最近では牛が健康になったので、前よりももっと広く畑を耕すことができるようになった。それまではもっている土地の3分の2ぐらいしか耕せなかった。
今ではこの地域では、めいっぱい耕している農家が多い。幹線道路のきわまで耕し、収穫も多くなった。市場も活気が出てきたし、新しい牛や服を買うことができた。ラジオを買うことができた人もいる。牛を持たなかった人に金を貸し出すことも始めている(この人達は翌年の収穫から少しずつ返金している)。
今では牛がいなかったから収穫も少なく、息子に嫁を取らせることもできなかった。牛を買う金を借りることができたので一生懸命働いて今日はその息子の結婚式なんだと野田さんのスタッフの手をにぎって喜んでくれた。「昨日までは明日死んでしまうかもしれないと思っていた人が今こんなに元気になっている」とスライドに写っている人々をそれぞれ紹介するときの野田さんは自分の家族を紹介するかのように話す。
援助とはなんだろう
エチオピアでは周期的に早魃があった。早魃の年だけでなく、毎年の端境期つまり食べ物のつきる頃、死んでしまう人が多い。それを経て生き残ったやつだけ生きていけるという厳しい条件があった。それでも以前は早魃の際に種を貸しあったりしていたし、食べれない人、弱い人を地域で守るという習慣があった。それが援助物資が入るようになってから変わった。援助物資は弱い者、貧しい者からもらえる為に、地域で支えあう習慣が消えかけているという。例えば種がない時に隣から借りようとすると自分が借りた分だけ返すのではなく、何倍か(つまり利子を付けて)を返すようになったそうだ。
人々はどんなに貧しくても客を歓待してくれる。明日食べるためにとっておかなくてはならないのに食べ物を分けてくれる。まるで「あなた達が食べて喜んでくれることが私たちの喜びです」といわんばかりである。
心暖かい人々が生きる国エチオピア。この国でもう人が飢えることのないように、お互いを思いやる気持ちが消えないように、共に生きて進んでいきたいと語る野田さんであった。