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公衆の健康;ブラジルにおける抗レトロウイルス薬治療

ジェーン・ガルベス

1996年以来、ブラジル保健省は全てのHIV陽性者を対象とした無料の抗レトロウイルス薬(ARV)治療を実施している。この政策の実施に当たっては、政治的、財政的、そして論理的な難問を乗り越えなければならなかった。私は、ブラジルにおけるARV治療政策の歴史と背景、治療薬の配分・供給そして政府が治療薬取得のために取った戦略について調査を行った。ブラジルで使用されている治療薬の多くはブラジル国内で生産されており、最も高価な治療薬を含む一部の薬は国外から購入されている。ブラジルのARV治療政策は目覚ましい成果をあげているが、治療薬取得費用の高額さに脅かされており、そのためブラジル政府は国際的な製薬企業と価格および特許権をめぐる紛争を繰り返してきた。HIV陽性者にARV治療を保証するブラジル型モデルが他の国々であるいは地域的に適用されるか否かを問わず、ブラジルの経験から多くのことを学ぶことができる。

公共医療システムを通じた無料で対象を限定しないARV治療は、ブラジル国家エイズ計画の最もよく知られた特徴であるが、ブラジルのエイズ戦略は教育、予防、疫学的調査さらにはエイズ危機に政府と社会が手を携えて立ち向かう動きを強化していくことなど広範囲におよんでいる。

現在、ARV治療は全面的にブラジル保健省の予算によって実施されている。政府がARV購入に責任を持つ一方で、ARV治療政策を継続させるための基本的な戦略として一部のARVの国内生産がブラジル保健省によって導入され、民間企業および国営企業によって担われている。2001年、このARVの国内生産、そして特許法との関わりが、ブラジルのエイズ危機対応策への大きな関心を呼び起こした。

ブラジルのARV治療政策が実施され継続されていることには、社会的な動きが大きく寄与している。HIV陽性者を擁護するさまざまなグループ、とりわけゲイ、レズビアン、 異性装者、フェミニスト、そして宗教団体が活発に活動してきた。具体的には、政府の政策実施に人びとが関わることを保障するアドバイザリーグループの設立、NGOフォーラム、HIV陽性者ネットワークといった活動が、ブラジルにおいてHIV陽性者の権利を擁護し拡大してきたし、政府のエイズ戦略を一貫したものとしてきた。

ブラジルのエイズ危機には三つの大きな特徴がある。貧困層および女性へのHIV-1感染の拡大、大都市圏から離れた地方部での感染拡大、そして女性のHIV-1感染拡大が母子感染率の拡大につながっている。

ブラジル保健省の公式データによると、同国のHIV-1感染者数は約597,000人と見積もられており、そのうち222,356人は1980年から2001年9月までの間にエイズ患者として登録されている。162,732人の登録患者は男性で、59,624人は女性であり、すでに約半数107,104人がなくなっている。

ブラジルのARV治療政策

HIV陽性者へ治療薬を無料で提供する政策はブラジルでは新規なものではない。1988年、ブラジルは公共医療システムを通して日和見感染症治療薬提供を開始したし、1991年にはジドブジンの提供も開始した。しかし、ブラジルが公共医療システムを通してARVを無料で対象を限定せずに提供し始めたのは、1996年のことであった。この年の11月、通常ではないやり方で、フェルナンド・エンリケ・カルドゾ大統領はHIV陽性者に治療薬を無料で提供する法律に署名した。

現行のARV治療政策が開始されて以来、治療を受けるHIV陽性者の数は着実に増えてきている。1997年35,900人、1998年55,600人、1999年73,000人、2000年87,500人、そして2001年には105,000人が治療を受けたと見積もられている。政府のARV購入費も増大し続け、1996年3,400万米ドル、1997年22,400万米ドル、1998年30,500万米ドル、1999年33,600万米ドルと増えた後、2000年には30,300万米ドル、そして2001年に23,200万米ドルとなっている。

ブラジル政府の見通しによると、ARV治療政策を継続していくに足る根拠が少なくとも二つある。第一は、ARV治療実施によって死亡数が減少したという明確な効果である。第二は、日和見感染症治療のための診療日数および費用が減少していることである。たとえば、サキナビル・リトナビルといった新しいARVが導入された1995年から2000年の間に、サンパウロ都市圏のエイズによる死者数は54%近く減少したし、リオデジャネイロ都市圏では73%の減少が見られた。病院診療費用および日和見感染症治療費用の減少も大きい。1997年から2001年の間で、ブラジル保健省の見積もりによると11億米ドル近い。

1996年、ブラジルで公共医療システムを通じてARV治療が実施されることとアナウンスされた後、同国で報告された新たなエイズ患者の数は当初予想された数を40%上回った(当時のブラジル国家エイズ計画のコーディネーター、ペドロ・チェカーが筆者に伝えたところに拠る)。この患者数増大は、ARV治療実施が表に出ていなかったエイズ患者の数を減らすことにつながったことを意味している。他にも患者・感染者の顕在化につながる要因があったことも忘れてはならない。無料のARV治療実施を広く伝える活動は同時にエイズへの注意・関心を促す活動全体の改善につながり、特に、疫学的調査の進展に大きく寄与した。それにしても、政府がARV治療実施に踏み切ったことはきわめて大きな意味を持った。民間の医療機関で治療を受けていた人びとは、無料の治療を求めて公的医療機関にやってきた。それまで検査を受けたことのなかった人びとが、ARV治療の効果を知りまた無料の治療が受けられることを知って検査を受けることを決断した。

このARV治療実施のもたらしたものの中には、HIV陽性者のQOL(quality of life)の向上、とりわけ社会的な理解の広がりもある。政府がHIV陽性者の治療を受ける権利ひいては社会にとっての彼ら・彼女らの価値と重要性を擁護したことがこの結果につながっている。この意味で、ARV治療実施は、かつてHIV陽性者への視線がもっと冷たかった時代にあるブラジルの活動家が語った、HIV陽性者の「社会的な死」を防ぐことにもつながっている。

ARVの供給体制

財政的な課題を別にしても、ブラジルの規模の国では、ARV供給の仕組みづくりと継続の問題は軽視できない。1988年、ブラジルでは統合医療制度が制定され、就業形態や他の健康保険との関係を問わず、全ての国民に対して無料の総合医療保障がなされるようになった。この制度が、ARV治療実施にあたっても重要な役割を果たしている。また、同国がHIV/AIDSの検査および治療に従事する人材を育成し、公的な臨床研究を実施し、ARV処方の指針を設ける能力を持っていることも重要である。このARV処方指針策定に当たっては、独立したアドバイザリー委員会がブラジル国家エイズ計画を支援して、対象とする集団に合わせて勧告やガイドラインを出したり改訂したりしている。

公共医療システムを通してARV治療を実施しながら薬の管理を行っていくための方法を確立することは、ARV供給体制構築時の問題の一つであった。具体的には、ARVを供給する施設を確定し供給の実施状況を追跡する仕組みを設け、またARV治療を受けている人の臨床検査を行うための施設のネットワークを創り出すことが必要だった。

現在、ブラジル全土に424カ所のARV供給施設がある。これらの施設は、ADDU(エイズ治療薬提供所)と呼ばれており、公立病院もしくはヘルス・センターの中に設けられている。ARV治療を受けるため、患者はこれらの提供所に登録されなくてはならない。さらに、公立病院の医師が患者を継続的に診察し処方箋を出すことになる。ARV治療が必要と診断されこのシステムに入るには、大きく言って三つのルートがある。一つは、匿名検査施設で検査を受け公立病院もしくは診療センターで診察を受けてADDUに登録されるという道筋であり、後は公立病院で検査を受けて登録されるか、私立病院で検査を受けたあと公立病院に担当が移されて登録される、というものである。

多くのADDUでは、患者は治療薬を受け取る際に見せる磁気カードを持たされる。ブラジル国家エイズ計画によると、2001年段階で約65%の患者はカードを使用していた。このカードは、特に登録患者の多いADDUで、患者の処方箋を確認するのに役立っている。サンパウロのような大都会のADDUの中には2500人もが登録されている所もあるのだ。

1998年、国家エイズ計画はSICLOM(コンピューター制御エイズ薬供給システム)を立ち上げた。このシステムは、ARVの提供状況を記録してADDUの適正在庫を保つ支援をし、また処方箋のチェックを行うものである。全てのADDUに少なくとも一台SICLOMを稼働させるコンピューターが置かれ、操作担当者が決められた。医者が発行した処方箋は全て、機械的にSICLOMによってブラジルのARV治療実施ガイドラインに準じたものかどうかチェックされる。毎日の業務が終わると、モデムを通して全てのADDUから処方箋情報がブラジルアの国家エイズ計画へ送られる。ブラジリアでは、送信されてきたデータが整理されて、ADDUあるいは処方箋にあった間違いや問題を伝える報告が作成される。たとえば、1999年11月から2000年1月に発行された処方箋のうち9%がSICLOMによってARV治療実施ガイドラインから外れていると排除された。排除された処方箋のうち5.1%は、もしそのまま処方された薬を服用すると重大な副作用が生じるものであった。医療従事者へのデータ・トレーニングが必要なのである。

患者の状態に関する正確なデータに基づいた適切なARV治療を行うために、ブラジル保健省は1997年、エイズ患者が無料でCD4およびウイルス量の検査を受けることのできる公的検査施設のネットワークを作った。保健省は、このネットワーク全体で2001年一年間に約40万の検査が実施されると予想している。その費用は総額1800万米ドルになる。2001年現在、全国に138カ所の公的検査施設がある。

SISCEL(病理検査管理システム)と呼ばれるもう一つのコンピューターシステムが、これらの公的検査施設からデータを集め、インターネットを通してブラジリアの国家エイズ計画へ送信している。SISCELは検査結果を集積してCD4およびウイルス量のグラフを作り臨床医に提供している。SISCELおよびSICLOMは、改良を重ねられながら、ブラジルにおけるARV供給という難題を克服するための最重要の仕組みとなっている。

患者個々人の名前が処方箋および臨床検査の結果と結びついていることから、この二つのデータベースへの患者情報の集中は、個人情報保護に関する疑問を引き起こしている。個人情報保護のために、データベースへのアクセスをパスワードと個人情報を漏らさないという命令を受けた人間に限る、臨床検査結果へのアクセスを当該患者を担当している臨床医に限る、といった方法が取られている。これまでのところ、こうした方策についてHIV陽性者のアドボカシーグループからの異議申立はなされておらず、また個人情報が漏洩したという公式報告もない。

ARVの国内生産

無料で対象を限定しないARV治療実施と併せて、ブラジルはコスト削減のためにARVの国内生産にも踏み切った(図参照となっています。プリント・バージョンでのチェックをお願いします)。何にもましてARV購入費用の大きさがブラジルのARV治療プログラム実施と継続を脅かす材料だからである。

1999年までにARVの47%(金額では19%)が国内生産されている。そのうち92.5%は国営企業によるもので、7.5%は民間企業が生産した。53%(金額では81%)は国際的な製薬企業から購入されている。2000年、2001年と国内生産の比率は増加し、2001年現在63%(金額で43%)のARVが国内企業によって生産され、37%(金額で57%)が国際的な製薬企業によるものである。2001年末には、ブラジルで使われている13種類のARVのうち7種類を国内生産している。残る6種のARVは国際的なマーケットから購入されることになる。そこでブラジルは国際的な製薬企業とARV価格をめぐる交渉を追求してきた。

ブラジルと国際的製薬企業

ブラジルは国際的な製薬企業によって過大な出費が強いられていると主張し、製薬企業がARVの価格を引き下げないのであれば特許権を踏みにじると脅しをかけてきた。コンパルソリーライセンス(強制特許実施)と呼ばれるこのやり方は、ブラジルの特許法では定められた条件下では合法である。しかし、これらの脅しそしてまた1996年ブラジルがTRIPS協定16項を実施したにもかかわらず、コンパルソリーライセンスが実際に行使されたわけではないことは忘れてはならない。とはいえ、この種の脅しが重要な交渉手段であることに変わりはない。たとえば、2001年2月、ブラジルはロシュの持つネルフィナビル、メルクの持つエファビレンツの特許を、価格引き下げが実現しなければコンパルソリーライセンスを行使することを考慮していると発表した。この発表を受けた交渉の結果、メルクはエファビレンツの価格を60%引き下げることに合意した。しかし、ネルフィナビルの価格引き下げ要求は妥当ではないと考えられた。

2001年8月、ブラジル政府はロシュのコンパルソリーライセンスを行使してネルフィナビルを国営企業Far-Manguinhosが国内生産すると発表した。ネルフィナビル購入費用がARV予算全ての28%を占めていることを、ブラジル政府は問題にした。8月末、ロシュは価格引き下げに合意し、コンパルソリーライセンス行使計画は終わった。

ブラジルのコンパルソリーライセンス行使を交渉手段に使うやり方には、支持と非難両方の声がある。2001年2月、WTO(世界貿易機関)は、米国がブラジルの特許法、特にコンパルソリーライセンス条項がTRIPS協定と適合しているかどうかを審議する小委員会設置を求めたことを受け入れた。2001年4月、国連人権委員会第57回会合はブラジル政府代表団が提案した、エイズ危機のような危機的状況下での医薬品へのアクセスは基本的人権であると決議を採択した。これはブラジルの立場を支持するものと言える。2001年6月、国連エイズ特別総会直前に、米国はブラジルに関するWTO小委員会設置要求を取り下げた。

2001年11月、WTO第4回閣僚級会議は、国家的な公衆の健康に関わる危機の際にはコンパルソリーライセンス行使を許容する政治宣言を発表した。この宣言はブラジルの立場を強化するだけでなく、HIV/AIDS治療薬を求める国境を越えた世界的な運動によって貧困国が必要な医薬品を得ることができるようなったこともをも意味している。

これらの成果にも拘わらず、重要な新薬が実用化され、これらの新薬による治療を必要とする人びとの数が増え続けている中で、ブラジル政府がどの位までARV購入の条件をめぐる交渉を続けることができるのか、未だ明確ではない。

結論

ブラジルの無料で対象を限定しないARV治療政策は、NGO、医療専門家集団、HIV陽性者ネットワーク、UNAIDS(国連エイズ合同計画)のような国際機関そしてブラジル国内および国際的なメディアから支持されてきた。私は、エイズ危機に対してブラジルが取った対応策の最も重要な要素と直面した問題の一部について短く概略を追ってきた。他にも分析の対象とすべき要素がいくつもある、ブラジル国家エイズ計画内の諸関係、予防と治療の関係、公的医療機関から示された治療方針へのHIV陽性者のアドヒアランス、患者たちとアドボカシーグループがARV治療政策創出に果たした役割、そしてブラジル国内でのARV治療政策に対する支持と反発に関わる政治的な諸要素などである。また、貧困層での感染拡大は、ブラジル社会から最も疎外されてきた人びとを公的医療システムが受け入れることができるのかどうか、検査を実施し治療を施すことができるのかどうかを問いかけている。

結論的に言えば、ブラジルのエイズ危機への対応は途上国がHIV陽性者の治療要求に応じるために下した決断として評価されるというメリットを受けている。国ごとの実状を見るとブラジル型モデルを他国に適用することは困難に思われるが、ブラジルの経験から学ぶべきことは多い。同時に、ブラジルの無料で対象を限定しないARV治療実施そのものは、効率性、動態そして継続性に関する今後の研究に道を開くものである。

筆者の立場について

10年余りエイズ政策への働きかけとNGO領域で活動したあと、私は1999年12月から2001年1月までブラジリアの保健省および国家エイズ計画で働いた。当初はNGOとの連絡事務所を担当し、後には国際協力事務局で働いた。この経験はこの記事の主題について貴重な洞察をもたらしてくれたが、ここで記された内容や立場について何ら影響を及ぼしてはいない。2001年2月より私はカリフォルニア大学バークレー校公衆衛生学部の客員研究員となっている。この間も、私はブラジル国家エイズ計画とバークレー校公衆衛生学部がフォガルティ国際エイズ教育プログラムに基づく共同教育協定を結ぶ手助けをしてきた。

Acknowledgments

I thank Arthur Reingold (University of California Berkeley School of Public Health) for reading the text and his suggestions; Daniel Hoffman for his comments and for translating the original text from Portuguese; Carol Rothstein, for revision of the text; Ronaldo Mussauer de Lima, former information technology manager of the Brazilian National AIDS Programme, for details on SICLOM and SISCEL; and the Fogarty International AIDS Training Programme, for grant support received during my stay as a visiting scholar at the University of California Berkeley, School of Public Health (Grant Number 1-D43-TW00003). The sponsor of the study had no role in study design, data collection, data analysis, data interpretation, or writing of the report.

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