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ザッキーは怒っている、でも絶望しているわけではない

Zackie is angry, but not bitter
Cape Argus, August 16, 2002, p.11

ミュイゼンバーグのメイン・ロード32番地。34番地にあるトリートメント・アクション・キャンペーン(TAC)のオフィスから道一本隔てたところで、ザッキー・アハマットはベッドに横たわっている。いつも欠かせない「HIV-positive」と書かれたTシャツを着て、乱れ髪で、もうほとんど40になろうというのに、少年のように見える。

赤みがかったオレンジ色の壁のその部屋は、いい具合に散らかっており、両側に本が並び、そこらじゅうに友人たちや家族の写真が飾られ、そしてテレビに占領されている・・・ザッキーは映画が大好きなのだ。

自分がHIV陽性だと知った1990年、ザッキーは3カ月の間、深い否認(denial)状態に落ち込んだ。そして、死ぬ前にビデオ店にあるすべての映画を制覇しようと決めたのだった。

疲れを知らない人権活動家、社会主義者にして決して原則を曲げない男、そんなザッキーですら、放縦と逃避の日々を経験していると知ると、ほっとする。

しかし、それは全体のほんの一部のことなのだ。ザッキーのアクティビズムは早くも1978年に始まる。そのとき彼は16歳にもなっていなかった。当時、黒人学校のボイコット運動が起きていたが、カラードの学校は教室に戻ることを選んだため、彼は自分が通っていたソルト・リバー高校を焼き払おうとしたのだ(注:ザッキーはカラード)。

それから10年の間、ザッキーは反アパルトヘイト運動にすべての時間を注ぎ込み、労働運動や学校ボイコット、ANC青年同盟への関与のために、拘禁も何度か経験した。

放火事件のせいでザッキーはトカイにあるポーター・スクール少年院で、「人生で最悪の経験」をすることになるが、その前にすでに、ムスリムである彼の家族に、自分がゲイであることを伝えていた。彼の両親、スレイマンとミモエナの関係がうまくいっていなかったので、ザッキーは叔母のファリエダ・タリエプと母方の祖父母のもとで育った。

「刑務所にいる間、家族には随分と助けられた。しかし、私がゲイであることを隠そうとしなかったことで家族の間に大きな緊張が生じ、私は家族と一緒に暮らせなくなった。刑務所から出た後で、3ヶ月もの間、路上生活をしなければならなかったこともある」とザッキーは語る。

「私はまだ子どものときに自分がゲイだと気がついた。そのような衝動や男性への気持ちを持ちつつも、私は信心深い子どもでもあった。私が感じることと、モスクや学校で聞く話とは一致しなかった。私は自分の気持ちを正当化し、説明をつけようとした。家族にも早い時点で打ち明けた。私について現実的な期待をしてほしかったし、そのことについて私と話をしてほしかったから。」

「私はいつも母や叔母と大人のように話すことができた、姉妹のミディと私が6人の子どものうちの最年長で、子どもながらに、兄弟姉妹について責任をもっていたから。」

「しかし、彼らとは話にならなかった(shut down)。そのことは、私と家族との関係を一生にわたり変えてしまった」

1979年、17歳のときに、ザッキーは初めての長期にわたるパートナー、研究者であり映画製作者でもあるジャック・ルイスと出会う。二人の関係は1987年に終わったが、ルイスの家をザッキーは今も共同使用している。

「私はいつもラッキーだ。私は受けるべき教育を受けていないが、いろんな意味で、もっと豊かな教育を受けている。ジャックは経済史の博士課程をやっており、当時私はマルクス主義者だった。彼は私の経済についての考え方に影響を与えた一人だ」

「さまざまな経験を積み、良質の教育を受け、何かよいことをするために自分たちの歴史的特権を用いたいと考えている人々と友達になり、彼らからいろいろと学ぶことができたのは、ありがたいことだ」

ザッキーには現在、パートナーはいない。

「最後のボーイフレンドは、2年つきあったあとで、『TACか私か、どちらかを選ばないとだめだ』」と言った。私には理解できた。私のような人間とつきあうのは簡単なことではない。一緒に山に登ろう、と約束していたのに、誰かが緊急の電話をしてきて、『ごめん、一緒に行けない』と言ったりする。あるいは、今晩料理しようと言っておきながら、午後11時に帰ってきたりする。だから、心は痛んだけれど、耐え難い辛さではなかった」

彼はエイズと呼ばれる病気についての騒ぎを1982年頃に初めて耳にした。 「レーガンが大統領だった頃のことで、ゲイとして、個人的には、そんな馬鹿なことがあるか、と思っていた。ゲイと黒人とセックス・ワーカーがかかる病気って? これは右翼による陰謀だ、レーガンのオーガズムだ、と」

「だから私はほとんど注意を払わなかった。意識しはじめたのは1987年に、友達の友達が死んだときからだ。そいつは非常に健康な、気のいいベジタリアンの一人だった。私はそんな人たちを避けていたくらいだったのに! それが、死んでしまったんだ。それで私はすごく心配になった」

「次に、進歩連邦党と鉱山会議所がマラウイ人の出稼ぎ鉱山労働者にHIVテストを受けさせることを主張し、鉱山から締めだそうとした。それら/彼らはいろんな意味でこの国の富だった(They were our country’s wealth in many ways)」「そういうわけで、私がHIVのことを理解したのは1980年代末のことだ。1985年には私たちはベルヴィル・コミュニティ・ヘルス・プロジェクトを開始し、HIVの問題に介入し、対処しはじめなければならないと人々に言い始めていた」

「すると、1990年に、自分がHIVに感染しているとわかった。医者は私にこう言った。『この病気については我々もよく知らないのです。あと6カ月かもしれないし、3年生きられるかもしれません』」

彼のくすくす笑いに、ついこちらもつられてしまう。

「想像してみてよ。私ほど人生を愛している人間も多くないと思う。読書、議論、したいことのあれこれ。それが、そんなことを言われて・・・それに、その年は南アフリカへの、体制移行への希望が出てきた年なんだ。打ちのめされたよ」

3ヶ月間の映画三昧のあと、反アパルトヘイト闘争も勝利が見えてきたこともあり、彼は自分のアクティビズムを暫くあとまわしにして、映画製作を学び、英語の学位(BA Honours)をとるため大学院に行くことにした。彼は大学を出ていなかったが、試験によって入学を許可され、恋人のいるジョハネスバーグに移らなければ、修士課程にも進んでいただろう。ジョハネスバーグで彼はエイズ・ロー・センターのパラリーガルとしての仕事を得た。

「1年たたないうちに、私はそこのヘッドになった。HIV陽性者の権利を守り、政府に人道にかなった対応をさせる、という仕事に没頭した」

「エイズ・ロー・プロジェクトで働いていたときの出来事でよく覚えているのは、非常に高いレベルの管理職ポストのオファーを受けたアフリカ人女性のことだ。彼女は自分がHIVに感染していることを知っていた。彼女は私のところに来て言った。「私には2人の子どもがいますが、子どもたちにHIVのことを知られたくありません。もし私がテストを受けたら、私はこの仕事を得られず、子どもたちはその理由を知りたがるでしょう。私は誰にもその理由を知られたくない、いったん誰かに知られたら、コントロールがきかなくなるから」

「私は衝撃を受けた。なぜHIVについてこんな風に隠さなければならないのだろう? プライバシーの権利は非常に重要だ。自分で決心がついたら人に話せばいい。しかし、恐怖心のために隠さざるをえない、というのはよくない」

「もちろん、当時、楽観的な見方も非常に強かった。新しい政府のもとで、全国エイズ計画が提案され、HIVの感染率は5%程度にとどまる。全国エイズ計画によってエイズの拡大を防げるという希望があった」

以来、政府が不気味に迫る破滅を見ないふりするなかで、彼が経験してきた落胆と幻滅は、彼を怒らせるが、絶望させはしない、と彼は言う。

「マンデラ前大統領がやっていることが、我々にとって最後のチャンスだと思う(注:マンデラがTACと政府の対話の仲介を申し出たことを指す)。もし彼らがマンデラまでも拒絶するのであれば、いったい何が彼らを動かしうるだろう?

何万人もの人たちが町中に繰り出すしかない」

「私たちはできるかぎり穏健にやってきた。ヨーロッパのエイズ活動家が彼らの政府にやっていることを見てごらんよ。私たちは穏健さのモデルだ。」

「個人的には、大統領が立場を明日変えてくれれば、まだ許す余地があると思っている。しかし、時間がたつほど溝が深まり、今すぐに対処しないと橋渡しのしようがなくなってしまう」

彼自身の健康も危ない状況が続いている。

彼は免疫システムが弱まっていることを示す胸部の感染症を何とか克服し、抗レトロウィルス薬の服用を今も断りつづけている。

しかし、彼の活動レベルは落ち、いつも休みをとることを余儀なくされている。たくさんすべきことがある人間にとっては辛いことだ。しかし、抗レトロウィルス薬についての彼のスタンスは揺るがない。

「抗レトロウィルス薬を飲まない、という私の決意について最も重要なことは、それによって良心のレベルで、状況に対処するための冷静さを保てるということだ」

「自分の体や、体に何が起きているかについての恐怖心という意味では、不安はある」

「毎時間、誰かに薬を飲め、と言われて、プレッシャーはある。でも同時に、私が知っている誰もが、私のしていることを受け入れてくれていると思う」

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